しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

郡さんは、まずひとりの読者として書物に向き合う姿勢や理念、それと、身銭を切って買って読むことの大切さの話をしているのに、そこはまったく話題にもならずに回避され、「クッキー」「フリマ」という言葉のみが切り取られ(確かに、誤解を受けても仕方がない部分がなかったとは言い難いが、意図としては、趣味で作ったクッキーをフリマで売るようなアマチュアとしてではなく、プロフェッショナルな出版人としての覚悟を問うリプライだったとわたしは思う)「性差別」という誤ったレッテルを貼られ、ミスリードされた。そして、叩く対象を日々探している匿名アカウントの自称「フェミニスト」(かの女たちの言葉の汚さには唖然とさせられるばかり)やその他大多数の者が前後の文章を読みもせず、或いは、ミスリードを意図的に行い、嬉々として「炎上」に加担した。

その発言の前に、くだんの女性編集者は、編集者は「狭い出版村」の「田吾作同士」で、本は「オラのイモ」という言葉で表現しているのに、である。そこは誰も何も言わない・言えない出版業界のいびつさ。みんな黙っている。おかしいのでは?と声を上げているのは、無名の読者だけ。人文書の編集者にこのような劣化した言語感覚の持ち主がいることに暗澹たるおもい。何より恐ろしいと思うのは、他者や死者や過去の書物に対する敬意がまったく感じられないことだ。心ある編集者のみなさんは、あなたたちが心を込めてつくっている本が「オラのイモ」呼ばわりされても、何も感じないのですか? それとも、そんな理念などという青臭いものにはとうの昔にさよならして、本など所詮はたんなる商品としか考えていないのでしょうか?

Twitterでは学者、研究者、関係者(献本してもらう人)と出版社、編集者(献本する人)による「献本を紹介して何が悪いの?」という反応しかほとんど見られず、ほんとうにがっかりした。一般の読者へのまなざしがそこにはない。

結局、版元や編集者は著者しか見ておらず、著者もお互い関係者のあいだで献本されて当然だ、みたいに思っているのだろう。(大手)版元の編集者は著者をはじめとする関係者のことしか見ていないというのは、以前、別の編集者のツイートからも感じたことだ。彼らは出版行為という営みが、何よりもまず無名の読者によって支えられていることに思いをいたすことがない。内輪の馴れ合いで済ませてしまっているように見受けられる。「公共圏」とは何なのか? まさにその現状に一石を投じるべく、郡さんは「公共圏」という言葉を持ち出して批判しているのに。唯一、フィルム・アーキビスト常石史子さんだけが郡さんの言わんとすることを的確に捉えておられて、慰められた。わたしがいちばんNFCに通っていた2007〜2008年頃、田中眞澄さんとは選ぶ席が似ていて、よく通路を挟んだ隣で映画を観たことを思い出した。

追記

郡さんは献本それ自体が悪いことだと言っているわけではない。ご恵贈賜りましたの一言で片付けるのは、本に対して失礼だろうということだと思う。