しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

夏休み読書で、田中純『過去に触れるー歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店)。著者の『冥府の建築家』には感銘を受けたので、第2章のアーカイブの旅はスリリングだった。 「死者から選ばれている」と思い込むに至るのは、気の遠くなるようなアーカイブ探索をつづけた著者だからこその感慨だろう。

芸術家のモノグラフを執筆する著者たちが何の躊躇もなく「資料がない」といった弁明をするたびにかすかな苛立ちを覚える、と著者は書くのだが、この点についても首肯するし、鍵のかかった日記帳を開けたとき「自分はこの日記を読んでもよいのか」という唐突な疑念に襲われたというのもしごく真っ当な反応だと思う。 ひょっとすると、この日記や手紙を通じて死者の秘密を暴いてしまうかもしれない、という「死者への負債感」。こういった根源的な怖れを欠いた書物はやはりどうかと思う、というわけで、『須賀敦子の手紙』はやはりどうしても引っかかるのです。しつこいようですが...。

 『過去に触れる』の感想に戻ると、ところどころ引っかかるところもあって、例えば「サスペンス映画とは引き延された写真的時間ではなかろうか」と著者は書くのだが、わたしが読めていないだけなのかもしれないけれど、ここのところはどうもピンと来ない。また、口絵のジゼル・フロイントが撮影した、小さなキンポウゲの花を手にしたベンヤミンの写真を「キンポウゲという女を「断首」していたのである」と読解するところなども(うーん、そんな大げさなものなのかなあ、と。たんに川辺を散歩していて小さな花が咲き乱れていたら、そのひとつを摘んでみるくらいのことは、何の気なしに誰でもするのでは?)。それよりも、このカラー写真が明治期の着色写真のようにへんに人工的な色味を帯びていることの方がわたしには気に掛かった。