しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

蓮實重彦「伯爵夫人」おぼえがき

『新潮』2016年4月号掲載の蓮實重彦『伯爵夫人』を読んで、そのあられもない小説に唖然とする。エッジの効いた鋭い言葉の数々に舌を巻いてきた者としては、「老いてますますさかん」という言葉がぴったりな精気漲るこの小説を読んで、マノエル・ド・オリヴェイラのようにいつまでもお元気で長生きしていただきたいなと切に思うのであった。

冒頭で「欧州」の「欧」の字が旧字になっていて、はて、これは?と思うのだが、「活動小屋」「活動写真」という言葉が見つかるので、なるほどこの小説の舞台は戦前、しかも少し読みすすめるときな臭くなってくる支那事変以降なのだと気付く。従妹の蓬子は『淑女は何を忘れたか』の桑野通子(地球儀をまわしてぴたっと止めるシーンや「口をとんがらせる」に)をどこか思い起こさせるし、伯爵夫人が啖呵を切るような江戸弁が冴えわたる辰巳芸者に豹変するところは藤純子のお竜さん、男色の平岡は三島由紀夫ケイ・フランシスはルビッチ『極楽特急』(1932年)のため息が出るほど美しい女優ときて、ああ、そうか、これは蓮實先生によるルビッチばりのソフィスティケイテッド・コメディ、艶笑小説なのか知ら?とぴんときたのだった。まあ、でも、艶笑小説――というよりもほとんどポルノグラフィ?だから仕方ないのだろうが、過剰な性的描写が延々と畳み掛けるように続くのが、濃厚なフォアグラを口腔にこれでもかこれでもかと無理やり押し込まれているかのようで読んでいてちょっと辟易してしまったし、やや度が過ぎるのではないかとも…。万事、匙加減重視のわたしのような者にとっては。もちろん、これは受け手の嗜好もあるけれど。

わたくし的には、ルビッチのようにドアの向こうで展開されることを匂わせる程度で「イット」を描いていただけるともっと好みだったのにな、と思うけれど、今は1930年代ではなく、この2016年という野蛮な時代に差し出されるのだから、これくらいの過剰さで丁度釣り合いが取れているのかもしれない。というか、むしろ戦争というグロテスクに釣り合うための過剰さなのかも知れない。文中でたびたび警句のように示されるように、世界の均衡などというものはちょっとしたことで崩れてしまうものなのだから。

やはり小説の悦びは細部にあるのですと言わんばかりに、ディテールがすばらしくて「コミュニズム」を「コンミュニズム」と表記するとか、断髪の和製ルイーズ・ブルックス男装の麗人、白木屋に同じタオルを一ダース届けさせるとか、ニッキ水とか、バイエルのアスピリンとか、欧州の小説の読み過ぎで結婚前に一度は気絶したい(わたしも着飾った上での失神に憧れた時期がありましたわ!)とか、蒲田時代の松竹の活動屋とか、周到にちりばめられたそれらを見つける愉しみがそこかしこに。

そして、極めつけに小津安二郎の文字が躍り出る…! しかも、作品名とともに二度も。何ですか、このわくわく感は。と、にんまりを通り越してあやうく声をあげそうになってしまう。まるでパラマウント映画。戦前の『キネマ旬報』を通読しているかのよう。「とんがらかす」という言葉が散見されるので、とんがらかっちゃダメよ、という渡辺はま子の声が頭のなかでこだまして、またしても思い浮かべるのは聡明ではねっ返りの姪という役柄がぴったりだった『淑女は何を忘れたか』における桑野通子。ばふりばふりの回転扉は角度120度の贅沢。「男装の麗人」にターキーや川島芳子、さらにそこから『間諜X27』のディートリッヒを思い出し、「帽子箱」にボリス・バルネット、「仔犬を連れた貴婦人」にチェーホフ、戦争に傾斜してゆく時代の描写に久生十蘭のあの素晴らしき小説『魔都』をおもう。金井美恵子だったら伯爵夫人の装いのディテールをそれこそ布地―クレープデシンとか―からドレープの具合まで緻密に描いただろうなあ。いやはや、これぞ粋でゴージャスで洗練された極上のエンタテインメント。フルコースで愉しませていただきました。

同時に我々は「貧乏人は蓮實の真似をするな」(浅田彰)をしっかと肝に銘じねばなりませぬ。ついうっかり手を出すと伯爵夫人のあの骨ばった細い指でぴしゃりと叩かれること必至。これは上流階級の方にしか書けない小説なのであって、わたくしどもは間違ってもこの方の真似なぞしてはいけないのである。

しかし、ここで淀川長治さんが御大を「ニセ伯爵」(シュトロハイム『愚なる妻』)と呼んだことが、どうも気に掛かってくる。

伯爵夫人とは誰か?

倫敦の高級娼婦でもあった正体不明の伯爵夫人は、フローベールが「ボヴァリー夫人はわたしだ」と言ったように、ニセ伯爵としての作者・蓮實重彦そのものだったのだろうか、とかなんとか、ふたたびつらつらと思い巡らす。ああ、それにしても愉しい読書だった、満たされた、ぷへー。