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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

花見散歩

murmur

日曜日、東京のソメイヨシノが満開との報。15時頃から雨が降るともいうので、午前中のうちにいそいそと支度して散歩に出掛ける。東京女子大学の構内に、花桃と思しき白い花が枝にみっしりとつらなって咲いている。満開の八重咲きの白。遠目だと少しさみしい印象の山茱萸も目に入る。わたしは控えめな感じのするこの山茱萸という樹木が好きだ。善福寺公園までの道のりに種類の違うミモザがそれぞれ満開になっているお宅があり、しばらく立ち止まって見とれてしまう。房状になっている濃い黄色のと、明るいレモンイエローのと。上からなんだか視線を感じるなと思ったら、二階のベランダの角から黒目がちの柴犬が顔をせり出してじっとこちらを眺めていた。わたしのなかではミモザは祖母の花なので、老人ホームにいる祖母を思い出してしまう。祖母がミモザを詠んだ歌。

堀越しのミモザの影の切れ目より四月の海の風を見ている

善福寺公園はうす曇りにもかかわらず大勢の花見客と子どもたちで溢れかえっていた。大人二人の花見はぽつんとしている。無言のままぼんやりと池のほうに視線を泳がせたり、しんみりお重の中身をつついたりと、どこかさみしそう。外国人観光客のカップルが水をぱしゃぱしゃさせながら、白鳥のボートに乗っている。狭い船内に窮屈そうな身のこなしで、軀の大きな白人男性が生真面目な顔つきでいっしんにボートを漕いでいるさまは、どこか滑稽だ。水面に向かって撓んだコブシの白い花がゆらめく。池の端に植わった、釣鐘状の小さなレモンイエローの花をたくさんつけたトサミズキも夢のように美しい。キンクロハジロは黒と白がシックな水鳥なのだけれど、頭のうしろに寝癖のような羽毛がしゅっとついているのが、なんだかプレスリーのリーゼントの髪型を思い起こさせて可笑しい。ニワトコの緑があんまり鮮やかで、こんなにきれいな緑色だったかなと思う。池をぐるりとまわって対岸から眺めてみても、ニワトコの生えているそこだけが発光しているように緑が鮮やかだった。シダレヤナギの若芽が風にたなびく姿はまるで雪岱の版画《青柳》のよう。雪岱の孫弟子だった、とこの前亡くなった金子國義の自伝に書いてあったな、などとつらつら思う。

昨日の昼休みは神田川沿いの桜を見た。桜は蕾の時のほうがピンク色が濃く見える。ひらくとほとんど白に近いうす桃色。灰緑色の苔で覆われた幹から枝も見えないのに咲いているのは少し薄気味悪い。花の蜜を吸っているのだろうか、満開の桜の枝にヒヨドリがやってきて喧しく啼いている、一本の桜の樹に1,2,3...4,5羽もいる。ヒーヨ、ヒーヨ、ヒーヨと啼くたびに、枝が大きく揺れる。

小川国夫『回想の島尾敏雄』(小沢書店)をポラン書房で見つけて読んでからというもの、島尾敏雄のことがにわかに気になりだし、図書館で『島尾敏雄全集』を数冊借りて「はまべのうた」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「孤島夢」「その夏の今は」などを拾い読みをしながら、未読だった、島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫)を読んで、その生々しさにひどく心打たれる。

そんな頭なので、今年は満開の桜を眺めていても、しきりと島尾敏雄の小説世界を思い出してしまう。あの理不尽極まりない戦争からたった70年しか経っていないのだ、という気がする。