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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

murmur murmur

二ヶ月以上も放っておいてしまった。書かないと何があったか思い出せないけれど、書いていないということは、特にぱっとしたことはなかったということか。今年は読書メモをほとんど書いていないことに気付いて焦る。もう半年終ってしまったというのに。再読を含め、読んだ本のタイトルだけでも手帖に書き込む。


今年は一月に読んだ『冬の幻』からはじまり、翌月『現代詩手帖』で追悼号(吉増剛造さんの文に...)が組まれたりしたため、昨年亡くなった飯島耕一さんのことがしじゅう気にかかっていて、気付けば飯島耕一さんの関連本(『萩原朔太郎1・2』『港町』『楠田一郎詩集』など)ばかり読んでいる。あとは、ルソー『孤独な散歩者の夢想』やモンテーニュ『エセー抄』には少しだけ救われるおもいだった。何も読めなくなった時は、古典を読むに限る。


「この人が生きているから」という心のお守りのような存在だった、那珂太郎さんと大西巨人が亡くなられたのも悲しかった。なんだかほんとうにがっくりきてしまった。図書館と家の往復の冴えない日日である。梅雨時期で雨がしとしと降るだけでも鬱々とするのに、政治や将来の見通しのことを考えるとますます俯き加減になってしまう。将来の見通し?なんて、そんなものわたしにあるのかしら。「見通しは暗い。夜どおし朝だ」という山口哲夫さんの声が頭のなかでこだまする。山口さんの運動神経の良いかっこいい詩を読むとようやく少しだけ気持が上向きになるけれど。それにしても、嫌な世の中になってきましたね。わたしは外的圧力に対しひじょうに脆い人間なので、いちど「ふさぎの蟲」に取り憑かれてしまうと、気が滅入ってしまって本さえも読めなくなるのです。困ったもんだ。ああ、願わくば強靭な精神と肉体が欲しい。それから、こういう「鬱の音楽」(那珂太郎)を吹き飛ばしてしまうような悦びも一緒に。


日曜美術館を観ていたら、世田谷美術館酒井忠康館長が出演されていて、夭折の画家・関根正二を紹介していた。関根正二の絵はデッサンも含め大好きな画家なので、思わず家事の手を止める。ブリヂストン美術館所蔵の《子供》(1919年)はほんとうにすばらしい作品で、何度も画の前に佇んだことがあるけれど、子どもの服の色が途中から燃えるようなバーミリオンになる秘密をはじめて知ったのだった。関根正二の描いた画を観に行きたい。夜、酒井さんの『早世の天才画家 日本近代洋画の12人』を読み返す。