しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社、2012年)*1読了。金井美恵子は新刊が出るとすぐさま買いもとめる僅かな作家のひとりだったのに、ここ数年はすこし興味の方向が小説からずれてしまったこともあり、今まで読まずに来てしまっていたのを、図書館の書棚を眺めていて「あ、そういえば」と手に取り、ここへきてようやく読む機会をもった。


うねるような饒舌文体の肌触りを久しく忘れていたが、読み進めると、ああ、この懐かしい感じ、これこれ、と嬉しくなってくる。生地と生地のあいだに織り込まれているさまざまな映画のイメジ――ボリス・バルネット『青い青い海』で真珠の頸飾りが床にはらはらとこぼれ落ちるシーン、胸板の厚い水夫役にぴったりな、若き日のヴィクター・マクラグレンを映画館の暗闇で眼に焼きつけた、ハワード・ホークス『港々に女あり』、そして水夫役といえば、子猫を肩にのせたミシェル・シモンの破天荒な魅力が溢れんばかりの、あの素晴らしきジャン・ヴィゴアタラント号』、さらには、戦時中とは思えないようなあかるい笑顔を振りまきながら轟夕起子が唄う「お使いは自転車に乗って」(マキノ正博『ハナ子さん』)までが次々と目眩く輪舞のように想起されるので、もう何だかその嬉しい目配せに行き当たるたびに、ひたすらににんまりとしてしまう。


この小説がいつもの金井美恵子と違うところがあるとすれば、語り手をかつて少年だった「私」としていることかもしれない。文中に出てくる剣玉少年のくだりには、剣玉がことのほか上手だったという澁澤龍彦吉岡実を思い出したりもした。


扉の岡上淑子さんのコラージュが神秘的でとても美しい。この小説全体を覆っているドレスや布、衣裳にかんする、やや偏執的とも思えるほどに費やされた言葉の数々を眺め見るだけでも、床に届くほどのマキシ丈の、ドレープが豊かに波打つドレスを身につけた女性が虚空を見つめるような眼差しですっくと立っている、岡上さんのコラージュにインスパイアされたことがよくわかる。


この本を読みながら、わたしもわたしの幼年時代のとりとめのない記憶の断片を思いだしていた。善福寺川に架かったS橋のたもとに群生していた、夕方になると咲く白粉花のどことなく寂しげな匂い、種を割るとまっ白な粉が出てきて子どもごころにその白さに魅せられたこと、雨のあとでアスファルトの窪みに出来た水溜まりに虹色の油膜が浮かんでいるのを見つけて、飽かず水面を眺めていたこと...。もうあることも忘れていたような記憶の深い層に手を差し入れ、開けなくてもいいような引き出しをそっと開けて光に曝すような。


ところで、水溜まりの油膜がつくる人工の虹に魅せられたのは、どうやらわたしだけではなかったようだ。

撒水電車の撒く虹は 並木の風にあふられて 午後の路上ですぐ消える だが見給へ 軌道(レイル)の石の水たまりに 機械油(オイル)がうすい羽を光らす
竹中郁「午後三時」/『木曜嶋』1巻1号(1927年6月)所収)


ちょうど水溜まりの油膜の虹についてつらつらと考えていたので、昨日、国会図書館の閲覧室で偶然この詩に行き当たってよろこんで書き写した。海港詩人倶楽部が刊行していた『羅針』11号(1926年6月)の編集後記には「たけなか」の署名で「これは余事だが、誰か伊良子清白詩集「孔雀船」を私に譲って下さる人はないだろうか」とあるのを見つけて、すこし嬉しくなってしまう。そういえば、竹中郁には「関西詩人風土記」というきっぱりと筋のとおった、この詩人の眼の確かさを感じられる鮮やかな一文があり、そのなかで伊良子清白にも触れていたのだった。


海港の詩人・竹中郁の第一詩集は『黄蜂と花粉』であるが、このタイトルに行き着くまで「海にひらく窓」→「海の日曜日」という変遷を経たことも判った。『羅針』(1925年4月)の受贈雑誌には『青樹』『亞』と並んで『GGPG』が見えるし、同9号では最上純之介(平井功)が寄稿しているのも、小さな交流の輪が垣間みれるようで、これまた興味深いことだった。