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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

生島遼一『春夏秋冬』(講談社文芸文庫*1


黄金週間のあいだに一度、他の本と一緒に読んでいたのだが、その時はあまりにもさらっと読んでしまったので、なんとなく再読したくなって、また読み返している。山田稔さんのいつもの抑制された、けれども、ふかい余韻の残る解説(そして、くすりともさせられる)を先に読んでから、また最初のページに立ち戻る。たとえば、解説文のこんなくだりにくすりとせずにはいられない。

調子のいいときは食事の後さらに、お茶を飲みに行こうかと誘った。お茶であって、酒ではなかった。そのお茶を先生は英語で言った。それは「チー」と聞こえた。(p.228)


フランス文学者の発音する「チー」には、なんとも言えないおかしみがある。若い人びとを前に神妙な顔つきで、生真面目に発音するだろう生島遼一の姿を思い描いて、ひとりでに頬が緩む。それから、本文に立ち戻ってみると、ここにも「チー」があるのを発見する。こんなくだりに差し掛かって、山田稔さんは生島先生の「チー」を思いだしたのだろうか。

鉄兵さんは文芸春秋チームのメンバーだったらしく、立派なユニフォームなんかをもっていた。小柄で敏捷だから、位置は二塁手と自分できめていて、セーフチー・バントなど得意であった。(「鉄兵さんの思い出」p.36)


「チー」のみならず、このエッセイ集のすみずみから匂いたつようにして現れてくる生島遼一その人の言語感覚(「えらい」「かわいい」といった言葉が見当たる)はすこしおもしろい。すぐれた翻訳家でもあり、京大名誉教授という輝かしい経歴の持ち主なのに、いや、だからこそなのだろうか、およそ衒学的でなく学者先生らしからぬところが、かえっておおらかな品の良さを感じさせる。これはわたしの好みの問題だけれど、やっぱり1900年代はじめに生まれた人の文章は読んでいて愉しいなあと思う。バルトやラルボーを引いて、読書なんぞは「暇つぶし」であり「罰せられざる悪徳」(ラルボー)であると、著者はややシニカルに書くようだけれど、読書をするものにとってよい文を読むとは、何ものにも替えがたいひそやかな秘密の愉しみであることを、よくよく知っておられたのではないか。本を読むことは、単調な人生の退屈を埋めてくれるかっこうの気晴らしとなるし、稀によい文に出遭うと、活字を追いながら、ああ、いいな、眼がよろこんでいるな、とわたしも思う。どのエッセイもしごく控え目であっさりとしているので、ややもすると読後の印象が薄い感もあるけれど、こちらも「チー」でも飲みながら、凝った頭をほぐす読書にはうってつけのようである。


山田稔さんによる解説*2は、これはたんなる解説文ではなく、教え子から先生を見つめたひとつのすぐれたエッセイであり、ラストの「これだろうか」などは真似してみたくなるような鮮やかさで、やっぱり上手いな、と嬉しくなる。またいつかのように山田稔の本を机上に高く積み上げてあれこれと読み返してみたくなった。そうだ、よい文章の条件というのは、くりかえし再読したくなるかどうか。これだろうか。

*1:ISBN:9784062901895

*2:あ、でも天下の講談社文芸文庫としたことが、『映画千一夜』はちょっとまずいです。『映画千夜一夜』がもちろん正しい。