しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』を読む


年の瀬に、ひょんなきっかけから、ハリー・クロスビーという作家のことが気にかかった。翻訳も見当たらず、日本語のwikipediaもないので、日本ではほとんど忘れられた作家なのかもしれない。勤務先の蔵書目録をちょっと調べてみると、坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』(白水社、2007年)という本で一章割いていることがわかったので、いそいそと本を借り出してきて読んだ、ということがあった。それで、ずいぶんと久しぶりに、ロスト・ジェネレーションのことやら、ガートルード・スタイン、シルヴィア・ビーチなどという名前につらつら思いを馳せて、狂乱と喧騒の20年代はやっぱりおもしろいよなあ、などと独りごちていたところだった。


この年末年始はちょうど休暇が長めだったこともあって、お供には長編や古典などずっしり読みごたえのある本を選んでおこうと思っていた。ここ数年は日本語の詩にかんする本を読むことが多くなっていたのだけれど、久しぶりに外国文学でも読みたいような気分で書棚を眺めていたところ、家人が棚の奥から「じゃあ、これでも読めば?」といって出してきてくれたのが、青緑色の函に入った河出書房の世界文学全集『ユリシーズ I』『ユリシーズ II』(丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)であった。通称「グリーン版」である。


言うまでもなく、『ユリシーズ』は20世紀文学の金字塔と呼ばれている作品。いっぱしの文学好きならば、誰もが一度は読破してみたいと思っている小説だろう。わたしはいちおう英米文学を専攻したというのに、昔からマイナー志向というか日陰街道を歩きがちで、文学史に燦然と輝く『ユリシーズ』を読もうなんてことを、これまで真剣に考えたことがなかったのだけれど。こんなふとしたきっかけから読むのもおもしろいかもなと思い、ついにこの歳で『ユリシーズ』を紐解くことになった。自分でも予想外の展開に内心「やや、大丈夫?」と思いつつ。


年末からそろそろと読みはじめて、そのまま年を越し、さらにほとんど丸々六日間をかけてようやく七草の前にかたちの上では読み終えたのだった。最後の頁の余白が目にまぶしい。大きな小説に対するたびに感じることだが、読後はふつふつと身体の内側から力が漲ってくるような、じんとした感覚に包まれた。良い小説は神経を大いに高ぶらせる。読み終えた晩は、『ユリシーズ』のさまざまなシーンが走馬灯のように脳裡に浮かんでくるので、目がぱっちり冴えてうまく寝付けなかったほど。フィクションでしかなし得ないものがこの世界にはある、ということを今更ながら噛みしめたのだった。


博覧強記、百科全書的な小説である。肌触りとしては、ラブレーやスターンの小説や、オリヴェイラの映画、ゴダール『映画史』なども想い起こさせる。アイルランドの歴史・宗教・政治の基礎的知識に加え、『ハムレット』を中心としたシェイクスピアが子守唄のような近しい存在で、ホメロスオデュッセイア』の下敷きがあったならば、なおよかった。世界史で学んだ固有名詞ももはや記憶の彼方であったから、この作品の半分くらいしか楽しめなかったと思う。おびただしい註をいちいち参照しながら読む方法もあったのだろうけれど、それでは文体を玩味できなくなるし、読書のリズムが壊れるので、ほとんど判らないままに読み飛ばした。うーむ、自分の教養のなさが悔しいところ。でも、それらの少なくない欠落を差し引いてもなお、圧倒的といってよい、ほとんど魔術のような魅力がこの作品には満ち満ちている。小説とは本来これだけ自由なものなのだ*1、ということを『ユリシーズ』は教えてくれる。フォークナー『響きと怒り』もビュトール『時間割』もクロード・シモンフランドルへの道』もみな『ユリシーズ』が源流なのだ。いや、そんなことは教科書的には知っていたけれど、この読書で身をもって知ることができた。そのことがふつふつと嬉しい。


とても平たく言ってしまうと、都市の光と影と近代人の苦悩を描いた悲喜劇なのではないか。聖と俗、貴と賤が入り交じり、時には性別さえも超越してしまう。主人公ブルームは両性具有的存在となり、モル(男性)がモリー(女性)になったりする。マラルメニーチェがでてきたかと思ったら、突如としてほとんど春本のような展開になり、教義問答になり、戯曲になり、婦人小説にもなる。まさに文体の魔術師。ポリフォニーとパノラマでとらえたダブリンの街は、もう少し美化してもよかったのにと思えるほどのリアリズムだが、都会の猥雑と喧噪とが十二分に伝わってくる。ディーダラスの父探し、ブルームの子探しというテーマも隠されていると解説にはあるけれど、それはこの本の要素のほんの一部分であって、そんな単純なものではないとは、すべての読者が頷くことだろう。この小説はもっと訳の分からないエネルギーに満ちている。


最終章の句読点を排した(読みにくい!)ブルーム夫人の独白がこれまた素晴らしくて。

だれがどういおうとわたしはきにかけないわ よのなかがおんなのてんかになったほうがずっといいとおもう おんなならころしあったりすることはないだろうし おんながおとこがするみたいによっぱらってベッドでごろごろころがったり さいごのいちペニーまでばくちをしたりけいばですったりするのをみたことあるかしら そうよだっておんなならなにをしようとやめどきというものをこころえているもの まったくおとこなんてこのよのなかにひとりもいないわけじゃありませんか おんながいなければ......(「18 ペネロペイア」p.452)


と、まあ、切りがないのでこのへんで止めるけれど、こんな調子で滔々と《意識の流れ》的独白が続く。螺旋を描くような、いや、不規則にうねるような小説の最後の最後で、こんなことを言わせるのか!と唸らせられる。この取るに足らない、どうでもいいような言葉をつらねながら円環を閉じてゆく感がたまらない。我が偏愛の、フローベール『ブヴァールとペキュシェ』を思い出す。そして、ほんとうに最後にぽんと投げ出されるのが「イエス」という肯定の言葉とは...。いやはや、凄い小説だ。


トリエステチューリッヒ、パリと移動を続け、足かけ7年にもわたって書き綴られたこの作品は、アイルランド文学もしくは英文学という枠には到底収まりきらず、汎ヨーロッパ文学と名づけるのが相応しい。おまけに、ホコポコ・ハラキリやリップ・ヴァン・ウィンクルまで玉手箱をひっくり返したようにごたまぜに飛び出すから、これはもう世界文学と呼ぶべきものなのかもしれない。

*1:ちなみに、ヴァージニア・ウルフはこの作品に否定的だったそう。何となくわかるような気がする。ちょっとさじ加減が凄いものね。