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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

清岡さんのこと


『アイデア』No.354を何度も眺めていたら、K氏のことを思いだした。そうしたら、何となく原口統三のことを思いだしたので、ふと思い立って、読みさしのままになっていた、清岡卓行『海の瞳 原口統三を求めて』(文藝春秋、1971年)を読んでみた。ついでなので、続けて『定本 二十歳のエチュード』(ちくま文庫、2005年)も借りてきて読んだ。『定本 二十歳のエチュード』は、二十歳という年齢から遠く離れたわたしのような者が今更読んでみても、特に思い入れることができる訳もなく、ただ、冷たい海に入る前に彼がなぎさホテルの柵に一高の学帽を掛けただとか、彼の亡骸が鎌倉と逗子のあいだの小坪火葬場に運び込まれただとかいう細部に心が揺らぐ気がした。子ども心にも「綺麗なお家」として目に映じていたなぎさホテルは、幼少の頃に遊んだ逗子の海の記憶とセットになっているし、小坪の火葬場は昨年亡くなった祖父が骨になった場所だったからだ。


筑摩書房版『定本 二十歳のエチュード』には、原口統三の遺稿のほかに「エチュード」に寄せた他の書き手の文章も多く掲載されている。このなかでは、中村光夫の乾いた文章にもっとも頷くことが多かったのだけれど、それはさておいて、彼の遺した断章に幾度も登場し、敬愛をもって描かれている「清岡さん」のことがやっぱり気に掛かったのだった。原口統三が19歳と10ヶ月で逗子の海に入水した時、清岡卓行は大連に居たので、彼の死を知ったのは亡くなって二年も経ってからのことであった。何かの随筆で、もし自分が日本にいたならば、柱に縛り付けてでも原口統三を死なせなかったろうに、という趣旨のことを書いていたのを読んだことがある。


清岡卓行のことが気に掛かるのは、これがはじめてではない。岡鹿之助の表紙画が美しい『マロニエの花が言った』(新潮社、1999年)を読んだ時もパリの麗しい三十年代に陶然となったし、「真理ちゃんと百合ちゃんのお父さんの仕事はふしぎな商売でした」という文章からはじまる伊達得夫の追悼文を読んだ時も、自分の名前の入った「萌黄の時間」という小説を読んだ時も、那珂太郎が親愛を込めて書いたのが窺える人物評を読んだ時も、いいなあと思った。門司港の国際友好記念図書館に展示されていた大連の中学校の校章を見た時も、思いだすのは『アカシアの大連』だった。それに、宮川淳が何度も評論で採り上げ、詩集の解説を書いているのもまたよかった。これは偶然なのだけれど、清岡卓行の勤め先だったセ・リーグ事務局が入っていた銀座のオフィルビルには、十年近くわたしが勤めていた洋書輸入販売の小さな会社も間借りしていた!そんな小さな積み重ねがあって、清岡さん――わたしの勝手なイメジでは、ほんのり赤みのさした色白の顔で穏やかに微笑んでいる――は、何となくいつも頭の隅にいる気に掛かる書き手だった。


この夏のはじめに読んだ、三木卓『わが青春の詩人たち』(岩波書店、2002年)は、あんまりおもしろい本なのでつづけて二回読んで、まだ図書館に返さずに手許に置いていたのを、ふと、清岡さんについて書かれたくだりがあったなと思いだして、三度目の再読をしたのだった。

安西冬衛に、「春」という詩があるだろう?」
「ええ」
「あれ、どこで書いたか、わかったよ」
かれが五十を過ぎたころだったと思う。ふいにぼくにそういった。それは大連在住だった安西の有名な一行詩である。


   春
            安西冬衛
 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた


「きみの小学校とぼくの中学校のあいだに下り坂があったろう。あの坂を蝶が飛んでわたったのを、かれは見ていたんだな」
「えーっ。ほんとうですか?」
「そうなんだ。ぼくには確信がある」
かれは微笑した。清岡のことだ。そういうからにはまちがいない。そうか!
ぼくはとてもうれしかった。それはひとつの文学的発見を知ったよろこびだったが、同時にそれを具体的にわかつことができるのは、とりあえずかれとぼくしかいない。そういう秘密をわかつことをかれが許してくれた。そういうよろこびでもあったのだった。(p.252~253)


清岡卓行にはご遺族の手による公式サイトがある。抑えた色遣いも好ましく繊細で瀟洒なつくりで、清岡さんの造本のイメジによくあっている。http://www.k5.dion.ne.jp/~kiyooka/index.html