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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

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ホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』を観る


イメージフォーラムにて開催中の「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」より、『影の列車』(1997年)を観た。1930年11月8日の薄明の時刻、 ル・テュイ湖畔で一人のアマチュア映画愛好家が消息を絶つ。あとには、彼の行方不明の三ヶ月前に撮られたホーム・ムーヴィが遺された。70年ののちに発見されたフィルムは、損傷が激しく劣化しているものの、われわれは遺されたこの映画の修復をこころみた、という設定で映画がはじまる。


ファーストシーンでその傷んだフィルムが映し出されるのだけれど、物質としてのフィルムの緑がかったブルーに鳶色の色調の美しさと、それが燐光のような残像となって、不規則な閃光のようにひらめくさまに陶然となる。意図的に映し出されるべくして撮られた家族のモノクロームの肖像と、そこに無遠慮に被さってくる大粒の水滴のようなしみ(『燃焼のための習作』の表紙...)や細やかなさざ波のような模様は、瀧口修造のデカルコマニーやバーントドローイングか、駒井哲郎のシュガー・アクアチントのようなざらついた質感で、フロッタージュの雨まで降っている。いったい今、わたしが観ているのは、映画なのか、コラージュなのか、それとも、もっと別の何かなのか、とさえ思ってしまう。侵犯する物質のオートマティスム、映画と美術のまじりあうところ...などとつらつらと思いめぐらしながら画面に目を凝らした。


映画生誕100年へのオマージュとして撮られたというこの作品は、わたしのように日頃からサイレント映画を愛好するものには、なんとも魅惑的なつくりになっている。挿入される16ミリで撮影されたモノクロームのホーム・ムーヴィは、その親密な時間を切りとって封印するという性質ゆえに、かえって失われたものへの郷愁を募らせるものだ。幾度となく映し出される家族の記念写真、陽気なジャズにあわせて子どもたちが踊るチャールストン、ボートを漕ぐたのしい川べ、庭の芝生での水遊び、ホースの水を向けられ嬉しそうに走り回る犬、そして、風を孕んだ木々のさざめきと白い陽光のかがやくなかでぶらんこに乗る少女の笑顔。ぶらんこに乗る少女が出てくる映画(ルノワール『ピクニック』デトルフ・ジールク『思ひ出の曲』エリセ『エル・スール』...)にはからきし弱いので、もうこのシーンだけでもあやうく落涙しそうになる。光と影を映しだすものが映画であった時代から遠く離れて久しい今、このような映画を観ることそれ自体が贅沢なのである、とか何とかエラそうに言ってみたい誘惑に抗えない...。


映画終了後のトークのなかで、ゲリン監督は「私の友人であるビクトル・エリセがこの映画について言ったのは、これは亡霊の映画だということ」というような趣旨のことを言っていたけれど、それでなくとも、ゲリンの口から「ファンタズマ」という単語が短時間のうちに幾度も囁かれるのを、わたしは『ミツバチのささやき』の黒い瞳のアナの憂いを帯びた呟きにかさねあわせて、不思議なおもいで聞いていたのだった。


追記(7/5/2012): 読者の方より、ビクトル・エリセのその発言は『影の列車』ではなく『イニスフリー』を指して言ったのではないか?との指摘をいただきました。多謝。ううむ、言われてみれば確かに手許のメモには「ファンタズマを連発、みつばちのアナみたい」と走り書きがしてあるものの『イニスフリー』のトークの時に監督が口にした言葉だったかも、という気も...。でも、ホセ・ルイス・ゲリンの映画には見えないもの、或いは失われてしまったものに目を凝らすというどこか幻視者のまなざしが在るので、『影の列車』に「ファンタズマ」を当て嵌めてもあながち間違いではないように思うのですが。


ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」は7/27まで開催中。
http://www.eiganokuni.com/jlg/