しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

欧州旅行記 その2

9月25日、アムステルダム二日目。今日は日曜日で、武田百合子さんとフォークナーとマーク・ロスコロベール・ブレッソンと家人の誕生日である。日没が遅いからか夜明けも遅い。薄明の時間がずいぶんと長いような気がする。運河から湿り気を帯びてひいやりとした朝の冷気。七時半過ぎになってようやく空が明るくなってきた。昨晩の喧噪の跡を洗い流すかのように、洗浄車が轟音を響かせながら何台も通り過ぎてゆく。後ろから見ているとゴミを吸い込んでいるのではなく、撒水をしながら回転するブラシでそれを散らしているだけのように見えるのだけれど...。


朝食後、ニューマルクト方面に向かってさっそく散歩に出掛ける。チャイナタウンを抜けニューマルクトを越えると、道々には現代美術のギャラリーやアクセサリー・ショップ、人文系の書店などのお店が増えてくる。クロムボームスロート63番地、ここが最初の旅の目的地。この建物の5階の屋根裏部屋にかつて、架空の国々の切手を描くことで世界の秩序にささやかだけれどくきやかな罅を入れようとした画家ドナルド・エヴァンズが住んでいた。もう30年以上も前の話だ。やあ、ドナルド。君はこんな三角の屋根裏部屋の住人であったのか。そうか、ここでスタインの『やさしい釦』を読んだり、プランターでバジルを育てたりしていたのだね。


 

クロムボームスロートは小さな運河沿いのとても静かな通りだ。その運河沿いに植わった一本の大きな楢?と思しき樹に「迷い猫」の貼り紙があり、この写真の猫の仔が昨年5月に死んだ実家のユキにそっくりだったので思わずカメラを向けてしまう。二階の窓辺にはちらちらとゼラニウムの朱赤の花、糸状のぐるり紫色の花冠をつけた白い時計草の花を咲かせた蔓が繁茂している青藍色のドア。ここから一本入ったKoningsstraatという通りで、平出隆さんの『葉書でドナルド・エヴァンズに』や『ウィリアム・ブレイクのバット』に出てくるベルタ・ウィレムセン嬢そっくりの美しいシンメトリー・キャットを硝子越しに見つけて、ぎょっとした顔でこちらを凝視する猫にかまわず「あっ、ベルタだ!」「ベルタに似てる!」と声をあげて大いによろこぶ。精確にはベルタよりもこの猫のほうがお腹から脚の部分にかけて白の分量がずいぶんと多いし、四肢だけが靴下を履いたように白いという訳ではないけれど、何ともきれいなシンメトリー(左右対称)の猫であった。


改装中の市立美術館(http://www.stedelijk.nl/)を目指して、シンゲル運河沿いを歩く。水面にうす曇りのブルーグレイの空から射してくるにぶい光が反射して白くきらめいている。市立美術館の受付にガイドとして座っていた男性に、持参した雅陶堂ギャラリーの画集"Stamps from the World of Donald Evans"のページを開いて指し示しながら、ドナルド・エヴァンズという画家を知っているかどうか訊いてみる、「確か版画室に作品があると聞いたのですが」とわたし。「ああ、それなら」と彼はろくに画集に眼を落とすことなく即座に答えた「二階の左角の部屋ですよ」。改装中で展示が縮小されている市立美術館で、エヴァンズの所蔵作品を観ることを半ばあきらめていたわたしたちは一瞬「おお!」と色めきたったものの、わたしの英語が拙かったのか、彼がいい加減だったのか、いずれにせよ、彼がここだと指し示した部屋ではエヴァンズとはまったく関係のない人の作品が展示されているのだった。もしかしたらと淡い期待をかけたミュージアムショップにも、50年代以降歴代の市立美術館の展示ポスターが飾られた部屋にも、わたしたちはドナルド・エヴァンズの名前をそこに見つけることはできなかった。仕方がない、エヴァンズの個展がこの市立美術館で開催されたのは1974年のことで、もう37年も前の話なのだ。当時の担当学芸員ももちろん今はここにはいない。うすうす判ってはいたことだけれど、それでもやはり半ば肩を落として市立美術館を後にする。せめて橋本平八の作品との類似性が気になるキルヒナーの木彫作品が見られたならまだよかったのだが、こちらも不運なことに空振りで見ることは叶わなかった。


中央駅に戻ってインターシティという列車でデン・ハーグへゆき、マウリッツハイス美術館http://www.mauritshuis.nl/)を訪問する。二階建てのシンメトリカルに区切られた四つの部屋に、フェルメール真珠の耳飾りの少女》《デルフトの眺望》、レンブラントの自画像やムーア人を描いた異色の作品などが揃い、長い時間をかけてじっくりと17世紀オランダ絵画を堪能する。過剰な不自然さに充ち満ちているこの時代の静物画を浴びるように観ることも今回の旅の目的のひとつであった。漆黒の闇に浮かび上がる不穏なまでの美をたたえたウィレム・ファン・アールストの朝露が滴り落ちそうなほど瑞々しい花々も、抑えられた色調とにぶい光線の具合がオランダの光を思わせて印象的なカレル・ファブリティウスの《Het puttertje(The Goldfinch)》も素晴らしかった。フェルメール真珠の耳飾りの少女》もあの青が魅惑的な作品だったけれど、その対面にあまり人目を惹くことなくひっそりと飾られていたMichiel Sweertsという未知の画家の描いた若い女性の肖像画の、口角をわずかにあげ、はにかむように微笑む慎ましさ漂う表情のほうにむしろ惹き付けられた。色調も地味な作品ながらもよくよく見入ってみると、耳飾りや瞳のハイライトの加減がそこだけ真珠の輝きを思わせるようなつややかさで、ほとんど見惚れるようにしてその画の前に長いこと佇んでしまう。


マウリッツハイスに居る時間がとても満ち足りて素晴らしいものだったので、深い余韻を残したまま後ろ髪引かれる思いであとにする。次なる目的地は、ドナルド・エヴァンズの痕跡を辿ることができるかもしれない場所と期待している、1958年創業のインドネシア料理店"SOEBOER"である。夕方4時というへんな時間に辿りついたのでお客はわたしたちの他には誰もいない。がらんとした店内に日本製の旧式の空調が小刻みに震えながら小さくない音を立てている。その音にじっと耳を澄ませているとなぜだか暑い日本の夏を思い出して気が遠のいてゆくようだった。テーブルにはインドネシアの布であるバティックのきれいなクロスが敷かれている。観光客は来ないところなので、もちろんお店には英語のメニュウもない。


店のおばさんがやってきて、わたしたちがオランダ語をまったく解さないと判ると、ちょっと天を仰ぐような仕草をしたものの、すぐに気を取り直したのか、ため息とともにいくぶん声のトーンを上げて「オーケー」と観念したように言ってくれる「わたしもちょっとしか英語が判らないのよ」。おばさんもこちらも片言の英語で話すのだけれど、お互いに発音がおかしいのか――「野菜はありますか?vegetables?」と言い、通じないので「V-E-G-E-T-A-B-L-E-S」一音ずつ区切って言うも、何故かどうしても通じないのだった!いやはや。おばさん曰く"I don't understand what you say"――どうも上手く伝わらないのを、何とか四苦八苦して注文を頼む。細かい玉葱の素揚げをのせたナシゴレン、バミー(米麺の焼きそばのようなもの)、鶏の煮物ココナツ風味、豚肉の串焼きピーナツバターソース、野菜は食べられなかったけれど、どれも大へんにおいしい。おそらくオランダという国に着いてから最良の味であった。


それで、またしても懲りずにエヴァンズのカタログを取り出して「この画家のことはご存知ですか?」と話し掛けてみると、おばさんは"No"と言いながら横に首を振る。かまわずに「彼はこのお店をとても気に入っていたんだそうです」と続けて、「このお店、ここに載っているんです」とちょうど"Soeboer"の名前が出てくるページを指差しながら言ってみる。このカタログの文章によると、エヴァンズはネーデルランド・ダンス・テアトル近くにあったこの店で、香料の効いた「鯖のしっぽ」をビールと一緒に食すのが好きで、店の経営者家族にはインドネシア語を少々教わっていたのだそう。すると、おばさん「ああ、ほんとう?」と驚いた表情をして「ちょっと、これいい?」と画集を厨房の方へ持っていってしまう。厨房からおばさんと料理人の男性の声が響いてきたが、何しろオランダ語なので何を話しているのかとんと判らない。結局、おばさんはそれ以上わたしたちに何も告げずに"Anyway, thank you"と言って本を返しに来た。


まったくへんな日本人観光客と思われただろうな。幻を追うかもしくは霞をつかむかのようにして、もう30年以上も前に亡くなった画家の話をしにわざわざこんな場所にやって来ているのだから。お店のレジスターの前に、おそらく創業者夫婦と思われる白黒の写真が木枠のきちんとした額に入れられて飾ってあった。ああ、もし彼らがいたならば、また違った話を聞けたかもしれないのにな。写真を見遣りながらぼんやりと思う。


アムスに戻って散歩のつづき。歩き疲れたので我がホテルの隣りにある運河沿いのアイリッシュパブに入ってみる。家人がギネスを1パイント頼み、喉がからからに乾いていたのですぐに「わたしも」と言ったら、一瞬、怪訝な顔で訊き返されるので、もう一度はっきりと「わたしも、よ」("Me, too")と言ったら、お店の兄さんが"Oh, you too?"と半ば呆れ驚いたような顔をするので、二人して顔を見合わせ噴き出すように笑ってしまう。こんなちんちくりんの子供のようなニッポンジンがギネスを1パイントも飲むなんて本当なのか!?といったところなのだろうか。彼の表情を思い出していつまでも可笑しい。入口の植え込みのところにとてもひとなつっこい雉の仔猫がいて、ひとしきり戯れあって遊んだりもした。