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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

水晶のように透明(クリスタル・クリア):キャサリンマンスフィールド


書かない時間があまりに長かったので、ここに何を書いていいのかよく判らなくなってしまった。こういう時は引用に限ります(?)。時間があるので、昔読んだ本を気まぐれに読み返すということをしているのだれども、ふとマンスフィールドが読みたくなった。いや、ふと、とか言うのは半ば嘘で、山田稔さんの『特別な一日』に収められている「ローラ、どこにいる」を読んでいたら、何年ぶりかでマンスフィールドのことを思い出したのだ。そうだった、マンスフィールドの「ガーデン・パーティ」という短編は我が短編ベスト10に入るくらい気に入っていた。

 彼女は完璧な作品を書くために「水晶のように透明」(クリスタル・クリア)になりたいと願った。神に祈った。この言葉が常に彼女の心に去来した。多くの場合、祈願することは完璧を求めることである。完成を目指すことである。言いかえれば、その途上にあることである。人間である以上、自分の仕事に完全な自信は持ち得ない、まして芸術的良心の鋭い作家においては。マンスフィールドの完全欲は極度に強かったようだ。読者である私は彼女のすぐれた作品から「水晶のような透明さ」を感じとる。作家がそうありたいと願っていることが、作品の特質となって読者にはねかえってくる――「水晶のように透明」になって作品を書きたいと願う、そういう態度から生まれた作品が「水晶のような透明さ」をもって読者に迫ってくるのだ。そうした透明さはその作家が資質として持っていることが必要であり、マンスフィールドはそういった天性の資質を備えていたのである。

 「水晶のように透明な」(クリスタル・クリア)という言葉は、創作態度、さらに作家の在り方といった抽象的なものを具象的な表現に置きかえた比喩である。「水晶」(クリスタル)は結晶体の澄み切った美しさ、純粋さ、明るさ、光に対する敏感さ、冷感――ひんやりとした感じで手に握ればほのぼのしたぬくもりが出てくる程度の冷感で氷の冷たさではない――、一種の堅さと重み――鉱石の堅さはあるが透明度が高く周囲の空間に溶けこんでしまいそうで、色つきの鉱石の堅さではない、またガラスの脆弱さ浅薄さはなく深々とした重みをなめらかさがある――などの属性を持ち、「クリア」は明るい、冴えた、澄み切った、透明な、にごりのない、色つやのよい、くっきりした、純粋な、等の意味がある。この二つの単語が結びあって、互いにその属性と意味を放射し合い、「クリスタル・クリア」独自の光を放っているかのようだ。

岩波文庫マンスフィールド短編集 幸福・園遊会他十七篇』(崎山正毅・伊澤龍雄訳)より、伊澤龍雄による解説

今年はジョゼフ・コーネルのことが気にかかっていることもあり、「クリスタル」という言葉にはどうも過敏に反応してしまう。何となく好きだと思っていたマンスフィールドが「水晶のように透明に」なりたいと願っていたとは。マンスフィールドもコーネルと同じ村の住人だったのかも知れない。