しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

素朴な月夜:左川ちかと古賀春江


ある日、小野夕馥さんの森開社から『左川ちか全詩集』新版が届いた。初収録の作品なども多数含む待ちに待った増補改訂版である。ほとんど黒に近いマットな濃紺の紙でくるまれた装幀はとてもシックで、"夜の詩人"左川ちかにぴったりだと思う。カヴァの真ん中には籐椅子に座ったかの女の洋装のポルトレが貼られている。撮る人を見つめているというよりも、やや視線をずらすかのようなまなざしをこちらへ向けて、口元をほんの少しほころばせて。いや、はにかんでいるようにも見えるけれど、困ったような拒んでいるような表情に見えなくもない。いずれにしても、心の奥底を容易に推し量ることのできないまなざしである。


詩集というものは、物語と違い読み終わるということをしない書物であるのだし、こちらの心のありようで、同じ詩の言葉でもすっと入ってくる時とそうでない時があり、読んでいる場所や天候や光や風の具合や時間に左右されることもあり、だから好きな詩篇も日替わりだったりする。


これからこの詩集をゆっくりと時間をかけて繙くことになるのだろうけれども、ひとつ「素朴な月夜」と題されている詩が目を惹いた。1934年の『椎の木』第三年第十一冊に発表された詩。


素朴な月夜

ルーフガアデンのパイプオルガンに蝶が止つた
季節はづれの音節は淑女の胸をしめつける
花束は引きむしられる 火は燃えない
窓の外を鹿が星を踏みつけながら通る
海底では魚が天候を笑ひ 人は眼鏡をかける
ことしも寡婦になつた月が年齢を歎く


この詩がわたしの好きな古賀春江の絵と同じ題名であるから、頁を繰る手をふと止めたのだった。代表作が《海》(1929年)や《窓外の化粧》(1930年)とされることが多いためか、古賀春江はモダニズムやシュルレアリスムの画家と紹介されることがお決まりな気がするけれど、わたしが一番気に入っている彼の絵は夢の絵本/絵本の夢の中にいるような、はたまた、水の中にいるような、何とも不思議な魅力をたたえた《素朴な月夜》(1929年)なのである。この絵に添えられた詩も可愛らしいけれど、どこか不協和音のようにへんに捩じれていている。


素朴な月夜

彼の話――私はどうしてさういふ妙な所へ行つたのだらうと思ふ。
水の中の底の方へだんだん落ちるやうに歩いて行くのでした。息苦
しくもないのを不思議に思ひながらそれでも落ちて行くのでした。
をかしくてもうやり切れなかつた。
遠い所に白いまん丸い月が出てゐたり、何か地上にも動いてゐた。
一匹の海豚がゐたがそいつは鐵張りで出来ているやうだつた。口が
大きく開いたと思つたら、私はその中へ辷り込むやうになつて大
きく膨れた腹の中へ入つて行つた。とてもをかしかつたよ。
(『古賀春江畫集』第一書房、1931年)


こうしてふたつの詩篇を並べてみると、どことなく似ているように思えてくるから不思議だ。左川ちかの詩に書かれた言葉――蝶や花束、窓、海底、月といったモティーフを見てみると、確かに古賀春江のこの絵と詩を連想させるところがある。もっとも、左川ちかの場合は、「花束」「星」といった童画風の甘いモティーフに「引きむしられる」「踏みつけ」という、いったんそのイメジを破壊してしまうような異質な言葉を繋げているので、その印象は鋭く尖っているのだけれども。「魚の目であつたならば」という散文のなかには、「画家の仕事と詩人のそれとは非常に似てゐると思ふ。」という一文があるのも少し引っかかる。


「一寸ビアズレエの少女を思わせる黒い天鵞絨の衣裳」(北園克衛)に躰を包み、黄金虫(《昆虫》の詩の無機的な冷たさ!)の指輪を嵌め、白く蒼ざめた顔(かんばせ)の眼鏡の奥で、死が親しい友人としてつねに側にあった者にしか見えないものがかの女にはきっと見えていた。闇を切り取る閃光と結晶のプリズム、固い蕾のまま緑色が痙攣する、衝突の火花が散っている。