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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

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ふたたび、橋本平八とその時代


『純粋彫刻論』で取り上げられていた画家や彫刻家と橋本平八の関係を調べるには、日本における表現主義の受容を見ておかねばならぬと思い、当時の資料など(日高昭二・五十殿利治監『海外新興芸術論叢書』(ゆまに書房、2005年)なる便利なシリーズがあるので助かります)を少しずつ読みはじめている。いやはや、うすうす予想はしていたが、やはりそんなに簡単に調べ切れるものではなく、継続して行ってゆく必要がありそうということが判り、書物は積まれたまましばらく中断してしまっている。ただし、これだけははっきりと言える。すなわち、橋本平八と当時最先端の芸術思潮とを結びつけるのには、弟の北園克衛の存在抜きには考えられないということだ。


表現主義の受容のなかに北園克衛を置いて考えてみると、まずは1922年に創刊された玉村善之助の主宰する『エポック』(エポック社、1922年〜1923年)が挙げられる。今回の《異色の芸術家兄弟――橋本平八と北園克衛展》図録によると、北園克衛は「1923年の春に日本画家の玉村善之助の家を訪ねる。」(野田尚稔「北園克衛――詩的純粋の追求」)とあるから、すでにこの雑誌を通じて海外の前衛芸術運動に触れていたことが推察される。


その『エポック』であるが、読売新聞の広告欄で確認したところ、創刊号の目次で早くも「表現派」という文字が踊り、その後もゲオルグ・カイザーの『朝から夜中まで』の舞台画や、「表現派映画」「未来派の宣言に就て」「ダダ・ダダ」「立体派・未来派・表現派」などといった内容がそれに続く。これらのある種「ごった煮」的な目次を眺めていても判るが、日本における海外芸術の受容でユニークな点は、青騎士キュビズムも未来派も表現主義もほぼ時を同じくして一緒くたに入ってきたような印象を受けることだ。美術雑誌『中央美術』を創刊した批評家の一氏義良にはその名も『立体派未来派表現派』(アルス、1924年)という著作があり、そのような「新興芸術何でもござれ」な時代の雰囲気が伝わってくる。


もちろん海外における新興芸術の最新動向として、新聞などでは1910年代からぽつぽつ未来派や立体派の紹介はなされてきてはいるものの、件数を比較すると1921年あたりくらいから大幅に言及記事が増えるという印象は否めない。やはり1920年代は海外の新しい時代精神の波"L'Esprit Nouveau"が一気に押し寄せてきた時代だったということが判る。


この一年後(1924年)の、のちに『G.G.P.G』を主宰する野川兄弟(野川孟・野川隆)との出逢いが、北園克衛にとって前衛芸術運動に身を投じる決定的なものとなったことはよく知られている。


先月の講演会「橋本平八―作品と思想」における毛利伊知郎さん(三重県立美術館)のお話で印象的だったのは、1923年から1925年にかけての三年間が橋本平八の創作にとって重要な時期だとしていたことだ。なるほど、この三年間こそが、芸術家兄弟が物理的な意味でももっとも近い場所で互いに影響を与えながらそれぞれの芸術を高め合っていた時期であり、もっと言えば、この三年間のなかに橋本平八の芸術の秘密を探るキーが隠されているのではないかと思うのだ。(さらにつづく?つづくといいのにな....と書き手もそう思っています)