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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

私的メモ:島本融と北園克衛


返本の時に、ふと書庫で目についた『株式会社紀伊國屋書店 創業五十年記念誌』(非売品・昭和五十二年、紀伊國屋書店)という本をぱらぱらとやったら、これはとてもおもしろそうだとピンと来てさっそく借り出してくる。収録されている「紀伊國屋と私」というお題で、紀伊國屋になじみの深い作家・研究者たちが綴ったエッセイ群は、創業当時の話などもあってかなり興味深い内容である。寄稿しているのは、伊藤整井伏鱒二北園克衛今和次郎、佐藤朔、東郷青児戸川エマ、野口富士男、春山行夫、林武、三宅艶子、向井潤吉、吉田謙吉、吉行淳之介など多彩なのだが、北園克衛のエッセイにこんな記述が出てきて、「お!」と思う。

北園克衛 「L'Esprit Nouveau」と「机」

紀伊國屋書店と私との関係は昭和三年頃まで遡ることができるようである。それは紀伊國屋書店が発行していた「文藝都市」の十月号の表紙を私が描いているからであり、その同人として随筆を書いたのを覚えているからである。

(中略)

同人には田辺茂一社長をはじめ舟橋聖一井伏鱒二梶井基次郎、雅川滉、古沢安二郎(彼は紀伊國屋書店が今も使っている包紙のデザインをした)などという作家が編集会議にあらわれた。誰もが大学を終ったばかりという若い人々である。たぶん田辺氏と私の個人的なつながりは、そうした雰囲気のなかでできたのであろう。

「L'Esprit Nouveau」は昭和五年八月五日に創刊された*1が、この雑誌は何か変ったフレッシュな雑誌をだそうということではじめたもので、売ることなど考えなかったが、紀伊國屋の店ではずいぶん売れた。この雑誌の寄稿者は「文藝都市」で知り合った作家たちと、田辺氏と私の友人たちであったが、今ではほとんどの人々が大家になっている。「L'Esprit Nouveau」は翌年の七月に発行した第二年第二号で休刊した*2。たぶん「紀伊國屋月報」のことで忙しくなったせいかもしれない。

(中略)

ある日、神田の昭森社を訪ねると、森谷均が田辺社長の伝言をきかせてくれた。「紀伊國屋月報」の復刊のことであった。こうして昭和二十五年一月に復刊第一号を発行した。昔とかわらないA5判、三十二頁の貧弱な月報である。「紀伊國屋月報」は昭和二十六年十二月号まで発行されたが、田辺社長の希望により改題することになり、いろいろ検討した結果「机」ということになった。

(中略)

そして昭和二十七年一月に「机」第一号を発行した。それから昭和三十二年十二月の終刊号に到る六年間、紀伊國屋書店の発展とともに、「机」もまた内容を充実していった。

(中略)

また「机」のブレーンの一人として、無償の協力をしていただいた島本融君を忘れるわけにはいかない。彼は詩人河合(正しくは、河井:引用者註)酔茗氏の令息で、当時東大の大学院に席を置いていたと思うが、毎号の特集のために、貴重な努力を払っていただいた。「机」が、長い伝統をもった丸善「学鐙」に迫るために、私の考えていたことは「学鐙」の大家有名人主義にたいして、「机」が新人主義に徹しようとしたことである。


「河井酔茗氏の令息」というと、酔茗主宰の塔影詩社から遺稿としてまとめられた『山岳文学序説』の島本惠也を思い浮かべるのだが、そうか、若くして急逝した惠也氏は長男で、次男がこの融氏だったのか。弟の方が北園にかかわっていたとは知らなかった。『山岳文学序説』は伊良子清白経由で小島烏水や文学に於けるアルピニズムの受容に興味を持って読み齧ったことがあり、美文に走らず適度に抑制された筆致で、清潔で好ましい文章だったことをよくおぼえている。弟の融氏はどんな文章を書いたのだろうか。追記:その後調べてみたら『VOU』の年刊詩集『VOU ANNUAIRE NOVENBRE 1954』にも名前が出ているし、個人詩集や翻訳もあるようだ。今度ちらと読んでみようと思う。

*1:としているが、これは北園の記憶違いで、創刊号は昭和五年七月一日に発行された。八月五日に刊行されたのは第二号である。

*2:これも記憶違い。終刊は第二年第三号で通号は七号であった。