しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

三重旅行記 その1


夏休みに三重へゆく。名古屋で青色の車を借りて桑名から津、松坂、伊勢、鳥羽と伊勢湾の海岸線に沿うようにして南下する。今年はじめてひぐらしの鳴くのを聞いた。夕暮れでもないのに。まだ八月の半ばにもなっていないというのに。カナカナカナ....の蝉の声を聞くと、どうも夏の終わりを告げられているかのようで、物悲しい心地がする。


桑名で、泉鏡花『歌行燈』の舞台となった船津屋を訪れたら、その場所が成瀬巳喜男による映画化の際にも、脚本を執筆した久保田万太郎が投宿した処だったということが記されているのを発見して、一人ますます喜ぶ。ああ、素晴らしきは、成瀬巳喜男の『歌行燈』......!朝の白い光を浴びた松林――地表のところどころに付けられたまだら模様の光のしみがぼうと霞んで潤んでいる――の木立のあいだを縫うようにして、山田五十鈴が鮮やかな舞を見せるシーンがほんとうに美しくて忘れがたい、成瀬巳喜男『歌行燈』(1943年、東宝)はわたしのもっとも愛する成瀬作品の一本なのであります。


ジョサイア・コンドルの建てた旧諸戸静六邸の六華苑という洋館は、ブルーグレーの外壁がモランディの絵画の色のようで、久々に洋館好きのミーハー魂が蘇ってくるようであった。やや彩度の低いグレイがかった菫色の屋根に白く縁取られた窓枠やバルコンが、外壁のブルーグレーに調和していて砂糖菓子のように見える。ひたすらうっとりと眺める。照明のスイッチや換気口、暖炉枠といった目立たぬ部分であっても、矢鱈に意匠を凝らしているのが見て取れる。昔の建造物が贅沢だと思うのは、一見無駄と思われる部分にも手を抜かず、技を注いで心を砕いているところだ。一種の心意気?或いは職人技とでも言うのだろうか、そういう丁寧な仕事を見るたびに「いいなあ、素敵だなあ」と感動させられる。


さて、今回の旅の目的のひとつ、【異色の芸術家兄弟――橋本平八と北園克衛展】を観に、津にある三重県立美術館へゆく。8日の日にちょうど[シンポジウム:橋本平八と北園克衛を語る](酒井忠康/ジョン・ソルト/平出隆)があるのを事前に知っていたので、せっかくだからそれに合わせて観よう、ということになったのだった。


北園の兄である彫刻家・橋本平八のことは、ほとんど名前しか知らなかったので、今回はじめて彼の作品をじっくり鑑賞することができたのだけれども、ええと、何と言うか、木彫の内奥の深くて暗いがらんどうの底から作家の魂がこちらに向かってしきりと「応答せよ」と言っているかのようで、不穏と畏怖とでたじろいてしまうような感覚をおぼえる。シンポジウムの席上で酒井忠康さんが「橋本平八は天才で、若い人たちにはまだ判らないと思います、いつか判る日が来るでしょう」という趣旨のことを仰っていたけれど、ほんとうにこの人の作品を理解するのは生半可なことではないな、というのが素人にも伝わってくる。足を着くか着かないかのように膝を屈し、耳をそばだてている天女の表情は、一見きわめて仏像的だというのに、まるで海藻が貼り付いているような髪の毛と身体中にびっしり彫られた蝶々と桜の花とが、なんだか見てはいけない異物を見てしまったかのような感じがして怖いような気もする。例えば、《幼児表情》(1931年)と題された作品において、そこにアニミズム的なものは感じ取れても、「クララ・ボウの寝醒の表情にヒントを得たるもの」と作家本人に解説されることで、観る者はますます混乱してしまう。ええ?この作品の何処に「イット・ガール」のクララ・ボウが居るのだ、と。たぶん、凡百の芸術家が同時代の文化を表層的な部分でしか咀嚼できなかったものを、橋本平八はもっと深い層から染み出るかたちで自らの芸術に昇華させたのだろうと思う。この判りにくさは尋常ではない。


展示の前半部分で、橋本平八の凄まじく濃密な宇宙に「あてられて」しまったようになって、息苦しさに目眩がするような疲労をおぼえたまま、やっとの思いで北園克衛の部屋に辿り着いた。ああ、わたしの好きな世界だ、と正直ちょっとほっとした。詩の実作者としての北園克衛については、わたしはそれほどには買っていないのだけれども、とは言え、エポック社の『ゲエ・ギルギガム・プルルル・ギムゲム』からはじまって、『マヴォ』『薔薇・魔術・学説』『衣裳の太陽』『L'ESPRIT NOUVEAU』『Cine』『オメガ』(はじめて現物を見た!)『MADAME BLANCHE』、ずらりと並べられた『VOU』など、当時の尖端であった場所に、必ずと言ってよいほどに北園克衛の名前が刻まれてたことが一望できて、あらためてその美的センスの確かさに、北園克衛恐るべし、と感じ入るばかりであった。そして、驚くことにそれらのデザイン感覚は今もまったく古びていない。むしろ書店に並ぶどぎつい色彩でぴかぴかした本ばかり見馴れている現代人にとっては、ささやかなオブジェのようで、なんとも慎ましい美しさをたたえている。北園克衛にとっては、詩を書くという行為が、紙の上に文字=活字を置く行為と重なる、ということを壇上の平出隆さんが仰っていたけれど、まさしく、北園克衛という人は、詩の言葉を紙の上にどう配置するか?ということ、すなわち、デザインを意識して実践に結びつけた最初の一人にして、それを生涯に渡り追求し、実践をしつづけた人なのではないか。もちろん、それは北園ひとりではなく、瀟洒な詩集を身銭を切って出版しつづけたボン書店――竹中郁『一匙の雲』と色違いの小さな薄い詩集『若いコロニイ』も素敵だったなあ――の鳥羽茂のような人もそうだったとは思うけれども。それと、もう一つ平出さんのお話で、北園のプラスティック・ポエムにおいて石をアルファベットの新聞紙で包むのは、内なる言語(日本語という意味でしょうか)ではなく、外にある詩で包んでいるということ、すなわち外国語の新聞で包むのは、日本の湿った風土を遠くに置きたいという願望なのではないか、という趣旨のことを仰っていたのが大へん印象的であった。


そして、やはり何と言っても舌を巻いたというか圧倒されたのは、物凄いとしか形容しようがないジョン・ソルト氏の北園コレクションの数々。日本に住んでいる訳でもない外国の方が、北園克衛についてここまで収集しているというのは、もう恐れ入りました、としか言いようがない。素晴らしいものを見せてもらいました。アルクイユのクラブ・バッジからはじまって、G.G.P.Gのロゴを切り抜いて貼ってあるスクラップブック!恩地孝四郎が挿画を描いた『夏の手紙』(1937年、アオイ書房)!エズラ・パウンドから寄せられた北園宛の手紙の数々。上田保の葉書の角張った筆跡とほとんどナンセンスな難解さは、まるで彼じしんの詩を見ているかのよう。どれもこれも綺羅星のように貴重なコレクションでじっとガラスケースの上に手を添えて見入ってしまうほどの眼福であった。あと、本企画を特集した雑誌『伊勢人』に寄稿されていた藤富保男氏によると、ソルト氏は毎年北園の命日の六月六日に卒塔婆を捧げているとのこと。これはなかなかできません。プレッピー・スタイル?に身を包んだ壇上のソルトさんは大人の男性に対して言うのもなんだけれど、とても可愛らしい雰囲気の方で、その姿を思い浮かべながら、いい話だなあ、とじんとした。


東京近郊のみなさんは、今秋に巡回する世田谷美術館で観る方々が多いと思うけれど、この展覧会は充実の図録も含めて必見!是非にと強くお勧めいたします。わたしも時間があればもう一度観に行きたい。


旅行記はたぶんその2へつづく