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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

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少し前の話になるけれど、図書館で『左川ちか詩集』(昭森社、1936年)を閲覧する機会があった。黒色の装幀だったのがすこし意外で驚く。何となくフランス装の白っぽい本を想像していたのだ。三岸節子の装画がシックで、ぱっと見た感じはシュルレアリスムの本のようにも見える。奥付を見る、そうか、戦前の昭森社は木挽町にあったんだ。余市の詩人・左川ちかが二十五歳で亡くなってから、遺稿集として出版されたこの本は、個人では手に入らない値段になりつつあるから、森開社から近刊予定の全詩集増補版を心待ちにしているところ。ぱらぱら頁を繰っていてすぐに気が付くのは、かの女の詩篇には「緑」の文字が頻出するということ。「緑色の虫の誘惑」「緑色に印刷した新聞紙」「緑の焔」「緑の階段」「緑から深い緑へと廻転」「緑色の透視」.......。かの女は「緑」に何を見ていたのだろうか。


それで、という訳ではないけれど、何となく読んでいた本の「みどり(緑)」「くさいろ(草色)」の頁を引いてみた。


上村六郎・小河その『学用色名辞典』(甲鳥書林、昭和二十六年)

 緑色のことは、万葉集には鴨の羽色(かものはいろ)と詠まれている。これは鴨の羽根の緑色をしている部分を指して、その様な緑色であると云うところから来た名称である。
 天然の染料には、一つのもので緑色に染めることの出来る材料が知られていない。そこで昔は、緑色を染めるには、藍と黄染の染料との二つを用いるのが常であった。従って、この二つの材料の割合に依って、黄味の緑や、或は反対に藍味の緑が、自由に染め得られた訳である。この様にして染めた黄味の緑は、例えば萌黄であり、藍味の緑は、例えば松葉色とか、もしくは山藍摺の色とかである。尤も、この中、山藍摺の色と云うのは、青緑色と云うよりも、むしろ更に青味であって、緑味の青、即ち、緑青色とも云うべき色である。
 緑色のことは、時として草色と称され、また柳色とも称される。なお、私の考えに依ると、古事記に記されている「翠鳥の青き御衣」とあるその青色も、その鳥即ち翠色の鳥と云う枕言葉からも知られる通り、やはり緑色のことであろうかと思われる。緑の柳のことを翠柳などと呼ぶのも、同じ云い方である。
 黄味の緑を黄緑と云うのと同じく、藍味の緑を青緑と云っている。また淡い緑はうす緑と呼ぶが、万葉集の様に、これを浅緑(あさみどり)と云う場合もある。なお、鮮やかな緑色のことを、時としていきいきした緑色などと呼ぶこともある。新緑と云うのは、鮮やかな萌黄色のことであろう。


古い色名辞典だけれども、おもしろくて読んでいて飽きることがない。「流離色」と書いて「るりいろ」と読むのをはじめて知る。著者は「流離」が本来何を指すものであるかはっきり判らないとしながらも、「ウルトラマリンの原鉱石、即ちラピス・ラズリのこと」と推定している。「流離」と「ウルトラマリン」(「海を越える」という意味なのだそう!)という言葉を連想させる欠片がいくつも頭に浮かんでしまう。それらを全部手で拾い集めて夜空に向けて放ってみたら、きっと星屑がミルキイ・ウェイの白い帯となって流れてゆくに違いない、とかそんなことを夢想したりする。暑さのせい。