しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


玲瓏たる雪の詩人の肖像:外村彰『念ふ鳥 詩人高祖保』(龜鳴屋、2009年)


平出隆『鳥を探しに』を読み終えてからというもの、にわかにその辺に居る鳥のたぐいでもそわそわと気になりだし、時間がある時は、鳥を見つけると歩みを止めるようになった。その辺に居る鳥なんて、せいぜい雀かヒヨドリメジロオナガ四十雀くらいなものだけれど。


それで、という訳ではないけれど、いや、それもあって、前々から気になっていたタイトルに「鳥」がつく本を、えい、と注文した。外村彰『念ふ鳥 詩人高祖保』(龜鳴屋、2009年)である。わたしの頼んだのは近江上布装A版[白]、嬉しいことに切りの良い番号が振られていて「A 050」番であった。


龜鳴屋の造本の素晴らしさは、前々から聞いてはいたけれども、届いてみて実際に本をこの手に取ると、何とまあ美しい本なのだろうと感銘もひとしおである。本をつつんでいる近江上布の白色だけでも珠のように美しい(ああ、わたしはすぐにでもこの本に半透明のグラシン紙を掛けなければならないであろう....!)のに、表紙の中心には銀色に箔押しされた小さな独楽が配され、前と後ろの見返しには、琵琶湖上を二羽の鳥が空をきり、向こうになだらかな島の見える牛窓湾が映り、奥付貼紙には第一詩集『希臘十字』の表紙カットが使われている。タイトルページの中心には、やや緑みを帯びたブルー・グレーの紙が貼られ、青く「念ふ鳥」と染め抜かれている。口絵にはジャン・コクトオの一筆描きふうのタッチで、高祖保自身の手による自画像が同じブルー・グレーのインクで描かれている。何とも惚れ惚れする美しさだ。


高祖保の詩にはじめて触れたのは、たぶん、図書館の書庫で漫然と岩佐東一郎・城左門による『文芸汎論』のマイクロフィルムを閲覧していた時だったと思うけれど、その時は別の詩人のことを調べていたので、特に彼に注意を払うこともせずに、ただその名前だけをうっすら記憶した程度であった。それが、昨年末に扉野良人さんの「りいぶる・とふん」主宰のイヴェント「とある二都物語」にて、二人の近江の詩人、高祖保と井上多喜三郎の名前があがったので(そういえば会場には著者の外村彰さんもいらしていた)ああ、そうだった、読んでみようか知ら、と思い立った。


写真を見るだけでもいかにも人の良さそうな井上多喜三郎という瞳のきれいな詩人の、初期の颯爽と煌めくモダニズムから戦後の人間味あふれる滋味深い詩趣への軌跡と、それをささえる無垢なユウモアにも心惹かれるものがあったが、高祖保という、鼻筋のとおった品の良い顔立ちの、眉目秀麗というのがぴったりな容姿の美青年が書いた詩群の、まるで鉱脈がその場所だけきらきらと眩しい光を放っているかのような純度の高い透徹した美しさの方にすぐさま魅せられてしまった。知的で繊細でノーブルな詩風。それは、たとえディレッタントと誤解されても、詩壇からはつねに一定の距離を置き、アマチュアリズムに徹したからこそ獲得しえた詩魂の美しさであるように、わたしには思われた。


彼の短い生涯をとおして、年長のよき理解者の一人であった井上多喜三郎は、第一詩集『希臘十字』(1933年)を「理知のテレスコオプがあまりに冴え過ぎている」と評して、その完成度の高いスタイルに「静謐の中の気韻」をみいだした。戦時下に出版された第三詩集『雪』(1942年)については、古典的手法に加えて散文的手法をもちいることで、静謐と典雅のなかにもウィットを挿入して「清新なる香気」を咲かせている、と評した。


たしかに、パルナシアンと呼ぶに相応しい高祖保の詩の、しんとした静けさに降り積もる孤独の滓や、銀張りの夜のねむりのうえに音もなく降りてくる粉雪や霜のこな、雨に煙る或いは晴れの日の澄んだ湖上に姿をみせる燕や鶺鴒やつぐみなどの鳥たちといったイメジには、濁りのない眼で選び抜かれ慎重に配された詩の言葉だけが持つ、はがねのような強靭さがみてとれる。


著者の「念ふ鳥」探しは、高祖保の生まれた場所に身を置くことからはじまる。牛窓に生家を辿り、生涯彼の懐かしい故郷となった彦根で歩みを緩め、その後上京して碑文谷から國學院大学折口信夫の講義を受けたのだそう....!)に通ったのち、横浜山下町の叔父の会社で勤め人として多忙な日日をおくりながらも、つねに詩と共にあった孤高のアマチュア詩人・高祖保の軌跡を丹念になぞってゆく。


堀口大學は、高祖保を「雪の詩人」と呼び、追悼詩篇にて「僕の孤独の慰安者よ」と呼びかけた。それにしても、詩人高祖保は「玲瓏」という言葉が似つかわしい数少ない人*1であったのだと思う。

*1:ここで唐突だけれども、谷崎潤一郎による岡田時彦弔辞の一文に「玲瓏澄徹シテ清香ヲ放ツニ似タリ」とあったことを勝手に(!)思い出したい。