しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


京阪神遊覧日記その一:神戸アカデミー・バーつれづれ



二年越しで訪問を心待ちにしていた1922年創業のバー・アカデミーにようやくゆくことができた。「つたのからんだ ある ふるい」小屋という感じの、つやつやした初夏の若草色の蔦に覆われたその建物は、バーというよりはむしろソロー『森の生活』にでも出てきそうなひっそりとした木造平屋の小さなお店。扉の上に「KOBE ACADEMY BAR SINCE 1922」と書いてある。恐る恐る扉をあけてみるとそこにはまだ先客は居ない。思わず英パンの随筆の中の「僕も、今日は御多分に洩れずまづアカデミイの扉を押す。オレンヂ・エイド。いいえ、温いの。客は他に一人もゐない。」を思い出してにんまりしてしまう、ええ、ちょっとした病気ですとも。



席に着くなり子供のようにぐるりと天井から壁から何からを見渡して、さっそく奥の落書きのような壁画を発見して喜んでいると、ハンチングをかむって音楽好きそうな二代目のマスターが話しかけてくれる。いきなり岡田時彦では話が通じないだろうから「竹中郁さんの......」と切り出すと「ああ、竹中先生ですか」とたいそう喜んでくださるので、こちらもつい嬉しくなって色々とお喋りをしてしまう。右上の女性の横顔のデッサンは竹中郁の親友・小磯良平によるもの、竹中郁のこうもり傘の右横の茶色の窓枠はこれまた神戸の画家・小松益喜によるもの、などなどを説明していただいて「ええ!」「ああ!」「わあ!」とか言いながら感無量。わたしが例によって大袈裟に驚きよろこんでいるのを見たマスターは、今度は奥から先代マスターとその奥様宛に届いた葉書アルバムを見せてくださる。端のほうが酸化して茶色く朽ちかけているけれど、わ!この文学館で見たことがある立派な大ぶりの筆跡はまさしく谷崎潤一郎だッ!す、すごーい、谷崎直筆の葉書がこんなにたくさんある......。そして愛らしいイラスト入りのほのぼのと品のよい絵葉書はまぎれもなく竹中郁だッ!お酒のせいもあるけれど、かなり舞い上がりぼーっとしてしまって、こんなに凄いものを見せていただいたというのに、その内容は目が醒めたらあまりよく覚えていない.....。さらに、マスターは昭文社からその昔でていたエッセイ付きの神戸食べ歩き地図?を見せてくれた。竹中郁によるエッセイとお気に入りのお店がいくつも紹介されている。映画人きってのグルマン・山本嘉次郎も書いている。竹中郁の本によく出て来る「かいやのかまぼこ」*1についてここでも書かれていたので「郁さんのお気に入りのお店だったんですよね」と言うと「それや、なんやかまぼこのこととか、たくさん書いとったからね、竹中先生は」とマスターが応えてくれる。



1922年創業、神戸で現存する一番古いバアであるところのアカデミーバーは、元々は現在の神戸文学館向かいの、原田の森ギャラリーとなっている場所近くにあったのだそう。関西学院*2がすぐそばだったのでお店の名前は「アカデミイ」。バアはまだ神戸では珍しかったから、先代マスターが「おもしろそうやから、やってみよう」と外国のバアをお手本にはじめたのだそう。当時、上筒井(今の王子公園)は神戸市電山手線の終着駅で、そのすぐそばには宝塚へ通じる阪急電車の始発駅の鉄傘があったので、外人さんやら何やらでたいへんにぎわったのだそうで、そこに竹中郁小磯良平(この二人は神戸二中時代から学校をサボって通っていたという!)、谷崎潤一郎佐藤春夫岡田時彦らが通った。何と言っても関西学院のすぐそばにあったのだから、不良モダンボーイだった稲垣足穂衣巻省三今東光らだってきっと通っていたに違いないと思う。小津のグルメ手帖にも「アカデミー 酒場」とその名が記されているけれど、布引町二丁目、とあるので、小津安二郎の通ったアカデミーバーは戦後の現在の場所なのだな。小津はアカデミー・バーが英パンが通っていたバアだったということを知っていたのかなあと思う、いや、知っていたんじゃないかなという気がする。そして、偶然なのかどうなのか、今、グルメ手帖を見てみたら、「アカデミー 酒場」の隣りにはその竹中郁の好きな「貝屋 蒲鉾 兵庫区戸場町一五」とあるのだった。



翌日訪れた神戸文学館の竹中郁コーナーはひたすら目に嬉しく、海港詩人倶楽部『枝の祝日』(昭和三年、二月)のまるでフランス製本のように簡素で洒落た造本と竹中郁による自画像含む油絵数点と白地に細い茶縞模様の壁紙、油絵のモティーフになりそうな羽ペンやドライフラワーや木靴の洗練されたモノ選びのセンスがさすがにさすがの「海港の詩人」たるお洒落な郁さんという感じで、あらためて素敵な紳士だったんだなあと思う。お孫さんのエンリコちゃんに宛てた絵葉書も展示されていたのだけれど、「菊水のすしをめあてによくべんきょうしなさい べんきょうと云っても何も学校とだけ限りません うちで掃除や洗濯もべんきょう也」と書いてあるのを見てにんまりしてしまう。ほんとうに郁さんはチャーミング!



そして、お目当ての竹中郁のほかに、今までほとんど名前しか知らなかった十一谷義三郎という作家が、いずれも溝口健二の『唐人お吉』(1930年、日活太秦)『神風連』(1934年、新興キネマ)の原作者だったことをはじめて認識して「おお!」と思う。『唐人お吉』は淀川長治さんが「これがいいんですよう。当時の最高....『唐人お吉』は全部喋れますよ」(蓮實重彦『映画に目が眩んで 口語篇』より「モダン・ボーイ溝口、日本を再発見」)と言う程に凄い傑作らしいし、『神風連』は溝口が入江たか子と共に主役に据えようと、病に倒れた岡田時彦の快復を二月のあいだ待ったが、ついにあきらめて月形龍之介で撮影を開始したという因縁の作品なので、岡田時彦を追いかけている者としてはかなり気になっていて、あいにくどちらの映画も現存していないのが残念だけれども、この神戸出身の作家・十一谷義三郎の作品をこれを機会にぜひ読んでみようと思う。


*1:足立巻一による素晴らしい力編『評伝竹中郁 その青春と詩の出発』(理論社、1986年)によると、竹中郁はかいやを三代にわたってひいきにし、東京へゆくときは必ずそのかまぼこを手みやげにした。「ぐーっと曲げても決して割れんのや。うまい。東京の築地の料亭ではかいやを使うてる」と、自慢したという。

*2:同じく前述の足立巻一の本によると、竹中郁が在学していた頃の関西学院は、神戸東端の山手・上筒井通りにあり、一帯は原田の森と呼ばれていた。阪急電車の始発駅・鉄傘のあたりからはもう学院の正門が見通せ、道の両側には学生相手の店屋が並んでいて、アカデミーバーはその山側の道沿いにあったそう。