しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


雁来紅の赤と山中貞雄



加藤泰『映画監督 山中貞雄*1を読んでいたら、『キネマ旬報』(1939年(昭和14年)9月11日号)に掲載された小津安二郎による山中貞雄の追悼文「雁来紅の記」が引用されており、それを読んではっとする。

山中に召集令状が来たのは暑い日だった。確か昭和十二年八月二十五日だったと覚えている。僕は戦争を急に身近に感じた。その次の日の午下り、山中は滝沢英輔、岸松雄と高輪の僕の家に来てくれた。丁度池田忠雄、柳井隆雄と脚本の相談をしていたところで、机の上の原稿を押しやりビールを抜いて祝盃をあげた。ひとしきり、上海戦の話が続いてから、さしづめ戦争に持って行く身のまわりの品々を何かと話合って細々と書き留めた。手帳、小刀、メンソレータム、剃刀、ダイモール。「おっちゃん、ええ花植えたのう。」気がつくと山中は庭を見ていた。庭には秋に近い陽ざしを受けて雁来紅がさかりだった。」(p.296〜297)

「雁来紅」は別名を「葉鶏頭」と言い、普通の鶏頭とは違って葉の部分が赤く染まっている花だけれど、そうか、小津の『浮草』(1959年)で杉村春子の家の庭の軒先に咲き乱れる葉鶏頭の赤は、きっと山中貞雄へのオマージュだったのだなあ、と今更ながら気付く。戦後カラーで撮られた小津作品では、誰もが指摘するようにとりわけ赤が印象的なのだけれども、その中でも、この『浮草』における葉鶏頭の赤は、何故かひどく印象に残っていたのだった。小津が花を写すということが、おや、これは珍しいな、と思ったのと、その葉鶏頭の赤い色が何となく異様なほどの過剰さでもってこちらに迫って来るように思えたからだった。



小津安二郎は、昭和12年8月26日のその日のことを、夏の終わりに山中貞雄と見た庭の葉鶏頭の鮮やかな赤色を、生涯忘れることはなかったのだと思う。昭和13年9月、山中貞雄が従軍中に病気で亡くなってから二十年以上も経って、その時の赤を画面に焼き付けるべく、あのシーンは撮られたのではなかったか。



それにしても「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ」という遺書を残し、「急性腸炎」なんて今だったら何でもないそんな病気で呆気なく二十八歳十ヶ月で死ななければならなかった山中貞雄のことを思うと、本当に悔しくて涙が出る。竹中労鞍馬天狗のおじさんは』に出て来るアラカンの言葉を思い出す「山中貞雄は天才やった。一本の立木のまわりをキャメラが廻る、春・夏・秋・冬と花が咲き葉が茂り、葉が落ちて四季はめぐり、一年たったと。こんな監督おまへん。出逢いのもんでんなあカツドウシャシンは。」。


<追記>
とは言え、あいまいな記憶しかなかったので気になって『浮草』(大映、1959年)を見直してみた。すると、やはり覚えていたように杉村春子の家の庭には丈のある雁来紅=葉鶏頭が咲き乱れていた、その赤の鮮やかなこと。そして、その雁来紅を見遣って、中村鴈治郎が言うセリフは何と山中貞雄とほとんど同じセリフ「ええ花植えたな。」であった.....!これはやはり思ったとおりだと判って一人興奮する。その他にも気をつけて見直してみると、「嵐駒十郎」一座の演目に「河内山宗俊」があったり、一座の者の役名が「仙太郎」だったりと、何かと山中貞雄を意識させるディテールがいくつも散見されるのであった。二十年という歳月を経ても、あらためて、小津の山中貞雄に対する哀惜と愛惜の情が痛いほど伝わってきて、葉鶏頭の赤を見ているだけで鼻の奥がつんとする。