しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


『春寒』(探偵小説のこと、渡辺温君のこと)(『新青年』昭和五年四月号)

.....茶色のチョッキに背広を着て、黒いヴガボンドネクタイを結び、髪を長く伸ばしている姿はいつもに変わらぬ渡辺君であった。元来故人は至って無口の方だけれども、それがただの無口ではなしに、沈黙の裡に一種の聡明を感じさせる不思議な魅力を持った人で、そう云う点では同じく故人の親友である岡田時彦によく似ている。尤も時彦のような好男子ではなく、むしろ無骨な東北人のタイプで、その眼の中に、一と言云えば直に此方の響きが伝わる何物かがある。(中略)或る日辻潤君が「『影』の作者を連れて来た」と云って岡本の僕の家を訪ねた。その時すでに渡辺君は『新青年』の記者であって原稿の用件を帯びて来たのである。が、用談は殆ど辻君が代りにしゃべって、君は始終黙々として僕の顔ばかり見ていた。僕はさっき第一印象の感じを書いたが、一つ書き洩らしていることは『カリガリ博士』の絵に出て来るアランの顔、ーー『影』の作者が辻君のうしろから這入って来るのを見た瞬間、真っ先にあの顔が僕の記憶に上った。ヴガボンドネクタイ、長い髪、暗い茶色の服(中略)陰影の深い容貌、おまけに神経質らしい眼はいかにもアランによく似ていた。そうしてそれは僕が『影』の作者の姿として心に描いている通りのものだった。このくらい想像と実物とがピッタリ合ったことはなかった。(中略)岡田時彦、楢原君を始めとして故人の友人には其の道の人が甚だ多い。日本のキネマ界も今や昔日のようではあるまい。一つ故人の追福のために『影』を映画化してはどうか。

渡辺温1924年プラトン社『苦楽』の懸賞映画シナリオ『影』が一等当選となって作家となる足がかりを作ったが、その時の選者が谷崎潤一郎小山内薫だった。1930年2月、自分が文壇にデビューするきっかけを作ってくれた谷崎の元へ『新青年』の記者として原稿依頼に行った際に阪急線夙川の踏切事故で亡くなった。以前、渡辺温岡田時彦について書いた時(id:el-sur:20071206)は、まだこの谷崎の『春寒』を読んでいなかったので、さも己が発見したかのように「渡辺温岡田時彦は友人だったのだ」などと嬉々として書いたのだけれども、何のことはない、谷崎のこの追悼文の中に「故人の親友である岡田時彦」とちゃんと書いてあるのだった、相変らずのおっちょこちょいである。



温の兄・渡辺啓助のエッセイ「兄が弟を語る」の中に、「亡弟温は、ホントのところ、映画監督になりたかったらしい。そのことは、兄の私にも、それとなく、ややはにかみながら、話したことがある」という記述がある。(権田萬治「異才を放つ兄弟作家、渡辺啓助と温」)それで、「ああ、そうだったのか」と、昨年、英パン発見の調べものに没頭していた時、『映画時代』誌にオング・ワタナベ名義で書いた映画エッセイというのか映画漫想というのか短い文章が掲載されていたのを思い出した。



モダンでお洒落だった渡辺温は、『新青年』の記者として勤めはじめて金回りがよくなると、それまで被っていた山高帽をキネマ俳優・山内光(=岡田桑三)に譲って、銀座でシルクハットを新しくあつらえて、それにモーニングというまったくの盛装で博文館に出社したという。これには「みんなあっと度肝を抜かれた」が、「これが温ちゃんだと、大しておかしくなかったのだからたいしたものである。温ちゃんは奇を衒っているのではなかった。ただそうしたいからしているだけであった。だから気障でもなんでもなかった。むしろ板についていた。」(横溝正史「惜春賦ー渡辺温君の思い出」)と書いてある。



そういわれてみれば、山田まりと結婚したあとも、渡辺温が生涯愛しつづけた女性は女優・及川道子だったし、岡田時彦や山内光とも仲が良く、渡辺啓助渡辺温・渡辺濟『W.W.W. 長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男』(ギャラリーオキュルス、2008年)に収録されている資料集の写真の中には、日活の撮影所を訪問した写真(右端には中野英治が写っている)が載っているし、「温七回忌色紙」の中には、映画評論家の岩崎昶、内田岐三雄まで名を連ねている。



そうか、温ちゃんは映画が好きだったのだなあ。もし監督になっていたならどんなにモダンで素敵な佳品を残してくれただろう?と思う。まあ、谷崎が自作『春琴抄』映画化の際にいみじくも指摘している*1ように、当時の日本映画を巡る様々な状況における拙さを考えると、より高いレヴェルの芸術性を追求したに違いない渡辺温の思い描くような作品を実際に撮るというのはかなりの困難があっただろうことは容易に想像できるとはいえ。


*1:「これは、別段『春琴抄』に限った話ではないが、どうも自分のものの映画化されたものを見ることは、これまでの経験からいっても、自分には辛抱出来そうにない。(中略)日本の映画界では第一流だといわれるようなひとたちでも、自分などから見ると先づまづ普通といえる程度で、これは別に年齢が多いから少ないからというようなわけではなく、なんというか、一体に他の方面のひとたちに比べて、やはりレベルが高くないように思われて仕方がない。本当に監督らしい監督、俳優らしい俳優が非常に少ないこと、そういうことがやはり、自分に日本映画を見る気を起こさせないわけといえるだろう。」(『サンデー毎日』春の映画号/昭和十年四月)