しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


水曜日、東京国立近代美術館フィルムセンター「発掘された映画たち2008」(http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2008-05/kaisetsu.html)のバン・コレクションのうちの一本を見に行く。



田坂具隆『月よりの使者』(新興キネマ、1934年)*1


入江たか子の代表作(にして現存する岡田時彦最後の出演作品)『瀧の白糸』(1933年)の翌年に撮られ、大ヒットとなったメロドラマ。原作は久米正雄。この映画も成瀬巳喜男『女人哀愁』(1937年)と同じく入江ぷろだくしょんの製作なので、とにかく入江たか子をいかにして素晴らしいヒロインに仕立てるかということに主眼が置かれている。なので、今見るとかなり笑ってしまうところが多々あるのだけれど、そういったトホホであったり、拙いところも含めて、わたしは戦前モダンのサイレント映画に心惹かれているので、いくつかのシーンで失笑しつつも、勿論楽しめた。入江たか子は信州の高原にそびえ立つ、アーチ状の柱で仕切られた廊下もモダンなサナトリウムの看護婦役で、白いベールをかぶった文字通りの「白衣の天使」なのだけれど、白いマキシ丈のドレープたっぷりのプリーツスカートに白のヒール靴を合わせており、看護婦というよりはどう見てもシスターのようで、およそ実用性からは程遠い装いなのが何とも素晴らしい。モダン都市文化が目一杯謳歌している無駄と無垢と自由とが、色々と世の中が傾きつつある今となっては羨ましくさえ思える。病室でも診察室でもサナトリウムなのに(!)医者も患者も煙草すぱすぱだし、看護婦役の入江たか子も、することはと言えば、にっこり微笑んで「お熱を計ったり」「お脈を取ったり」するだけで、あとは、白樺の木々のあいだを縫って竜胆を摘んで患者にあげてみたり、ひなぎくを摘んでくるくる回してみたり、お花畑のなかで白いスカートをふんわりと開いて坐ってみたり、菅井一郎の描く絵(モデルはもちろん入江たか子)を眺めていたりと、およそ激務とは程遠い毎日をのんびりと過ごしているだけで、サナトリウムというよりは一種のコミューン的ユートピアな世界がそこには広がっているよう。戦前っていい時代だったんだなあとか早合点してしまいそうになるけれど、さすがにこれは映画の中だけの話でしょうか。



三人の男性から求愛されてしまう入江たか子のモテ振りが凄くて思わず笑ってしまう。結核患者の一人は、レントゲンを撮りながら「僕の心臓が見えますか?」などと迷言を吐いたりするのでこちらも失笑、それを聞いて困ったようにうつむく入江たか子。また、白壁のバルコニーに朝日が木々のあいだから差し込んでグレイの木漏れ日のしみをつくるので、ところどころまだら模様の影を帯びた高田稔と菅井一郎が映るというなかなか印象的で美しいシーン、庭から花を摘みながらやってきた入江たか子が「お早ようございます」と薄い唇に八重歯を見せながらにっこり微笑んで黒めがちの大きな瞳がアップになると、朝からアイメイクばっちりなのがもう可笑しくて吹き出しそうになる。



英パンと『新しき天』で共演した中野かほる(長いストールを巻いてモガ度満点の着物が可愛い!)と連れ立って手に手を取り、肩を組まんばかりにしてくすくす笑い合いながら高原の砂利の小道を並んで歩くさまは、さながらエスといったところで、これまた戦前モダン文化特有のディテールだなと思う。ディテールといえば、何と言ってもこの映画で素晴らしいのは水谷浩の美術である!!いや、これは素晴らしかった。洋間のランプシェード、石造りの暖炉、木製ベッドの凝った意匠、花柄の壁紙など、見ているだけでモダーンでわくわくする。清水宏『港の日本娘』(1933年)における金須孝による美術も素晴らしいけれど、それに匹敵するものであった。これだけのためにも、観ることができて幸運だったと思う。先日同じ特集で観た佐々木康『悲恋華』とは比べものにならないほど素晴らしい。



それにしても、英パンが一月に肺結核で亡くなってその二ヶ月後に封切られた新興キネマの映画で、結核の患者役を英パンの親友・高田稔が演じたんだなあ。そうか、そうか、と何だかしみじみしてしまう。英パンのことをかなり本気で好きだった*2入江たか子も、臨終の時に手を握っていたという親友・高田稔も、それぞれの役を演じながらきっと岡田時彦のことを想っていたに違いない、と思う。

*1:画像は左より高田稔、中野かほる、水原玲子。Mさんの個人蔵スチルからお借りしました。いつもありがとうございます!

*2:と、彼女の著作『映画女優』に書いてある。