しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


本日の英パン発見


平野威馬雄『銀座の詩情1』(白川書院、昭和四十一年)


岡田時彦より三歳年上の平野威馬雄が書いた銀座の本を読んでいたら、英パン発見となったのでメモ。平野威馬雄も英パンと同じ、逗子開成中学出身だったんだなあ。序文を石黒敬七が書いていて、この人の書いた『旦那』(昭和十二年)という本がとても読みたいのだけれど上手く見つかりますように。

ユーハイムの思い出から
......そういえば、たしかにぼくは、ユーハイムがすきだった。横浜に住んでいたころ、山下町ユーハイム*1にはほとんど毎日のようにいったものだ。あのころのハマはエキゾチックだった。本牧や大丸谷の茶巫屋(ちゃぶや)が全盛で、北村透馬*2岡田時彦江川宇礼雄たちが悪童ぶりをフルに発揮していた。かく云うぼくもその一人だったが.......。沢正が殺陣で客をよび、井上正夫が連鎖劇であばれていた。

弁天通り、横浜公園と平行した通りで、レインクロフォードや八木屋といったしゃれた店がならび、丸善、さむらい商会、ひつじやなど、しっくりとした店がまえがハマの一面を代表していた。ユーハイムは看板がしゃれていた。ザクセン風のアラベスクで文字がかかれ、E・ユーハイム......洋菓子とコーヒーだが、当時パウリスタのコーヒーは一杯五銭で、ドーナツをつけてくれた......が、ユーハイムはたしか十五銭だったと記憶している.......。だから、当時としては、とび切りの上値で高級だったわけだろう。ハマのユーハイムは東京にもすぐ知れわたり、わざわざフンイキを味わいにくる人も少くなかった。ナンキン町やザキをひやかし、モクのキヨホテルでビールとダンスに飽きると、ユーハイムによって、めずらしいドイツ菓子を買って東京にかえる.......、そんなのどかな日々だった。

英パンはその後マキノや帝キネ、東亜などを経て、日活に移籍して、京都に住むようになっても、横浜の思い出を辿ってなのか、港町・神戸がお気に入りだったようだ。ユーハイムにレインクロフォード、ハマ時代とまったく同じお店に通っている。以下は『春秋満保魯志草紙』(前衛書房、昭和三年)より。

そこで、まづまづ神戸である。
定石を行くやうで月並だけれど、ま、取敢ず元町を一と通り流してから居留地へ出てレイン・クロフオドかヒルを、無論これは素見で、それからユウハイムでお茶でも喫んだら、パラマウントかファアスト・ナショナルを襲って試寫を観せて貰ひ、外は既に夕昏であるといふのでぐッと引返してアカデミイでダイスを転がしながらスタウトをいささか。

石黒敬七『旦那』という本は、平野威馬雄曰く「軽妙洒脱、まことに楽しい話術の連続で、しらずしらず読了してしまう」とのこと。その中に「銀座で会う人々」という章があるらしい。個人的に「お!」な色んな人が出てきて興味深いのでちょっと引用。

銀座で見たり会ったりする人々は随分ある。(中略)ぼくは資生堂コロンバン以外には、大通りのカフェにはあまりいかない。但しビアホールには時々行く。資生堂にはいっていると、写真や顔だけ知っている人達が時々来ている。(中略)コロンバンは親父門倉旦那と別懇であるという関係から、前を通ると必ずよらなければ義理がすまない気がする。「テラスをつぶしたのは君や佐分だってね」と藤田旦那(嗣治画伯)が云う。理由を訊いてみると、ぼくや佐分がテラスでしゃべっていると、中のお客さんはみんな出てしまって、入ろうとするお客は通りすぎてしまうからだという。(中略)

北村小松ちゃんは自動車(ダットサン)を横づけにしてコロンバンでマダムとソーダ水を飲んでいる。(中略)
岡田三郎助氏も、テラス時代にはコロンバンへ現われたが、今では資生堂が多いようだ。
高田保旦那も、例の頭髪を振って、しきりに弁じているのを見かける。(中略)
このあいだは中村吉右衛門が定食を食っていた。もう相当の年輩だが、舞台ではあんなに若くなるのかとおどろいた。
P.C.L.の、よく芸者になる女優さんが、男二三人ときていたことがあったが、勘定は女優さんが払っていた。
国文学者の五十嵐力博士がいつかきていた。ぼくも先生から習ったことがあるが、私は先生から習いました、と名乗っていっても仕方がないから、心中で敬意を表しておいた。

P.C.L.の巨人、岸井明君も、時々ここへ来る。あんな大きな男が、二分おきぐらいに椅子から立ち上がって、電話をかけに行ったり坐ったりしているのを見たことがあるが、案外身軽なのでおどろいた。然し暑い頃だったので、巨人が立ったり坐ったりするのを見ているのは相当暑くるしい感じがしないでもなかった。

文壇人も見受ける。徳田秋声老なども病気がよくなって時々あらわれる。
水谷八重ちゃんも二度ばかり見た。八重ちゃんの現われるのはたいてい三時頃のようだ。(中略)
伏見信子さんも一度見た。姉さん*3やお母さん等ときていて多勢でアイスクリームをたべていた。


*1:ユーハイムの公式サイトを見ると、1921年(大正十年)3月に横浜に出店したとあるので、英パンや内田吐夢江川宇礼雄が谷崎やトーマス栗原と一緒に大正活映に居た頃。

*2:異国情緒溢れるモダン都市・横浜の魅力を堪能できるのが何とも嬉しい、清水宏『港の日本娘』(昭和八年)の原作者!

*3:時代劇の女優さんという印象が強い伏見直江だけれども、日活時代に英パンとは大の仲良しだった。大河内伝次郎があらわれるまではまるで兄妹のような関係だったらしい。岡田時彦とどうしても一本撮りたい、と伏見直江からのたっての願いで阿部豊監督の現代劇『花嫁花婿再婚記』(日活大将軍、昭和三年)が撮影されたのだそう。