しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

東京国立近代美術館フィルムセンターにて、ジャン・ルノワール『のらくら兵』(Tire au Flanc, 1928)。



先月一杯までの、特集上映「生誕百年 映画監督 マキノ雅広*1に引き続き、個人的に感涙もののルノワール特集だてんで、さっそく今日から通い始めるつもり。ちょっとイレギュラーなこともあったりして身辺が色々とざわついてて時間を作るのが難しそうな昨今なのだけれど、今月一杯と思って、シネマヴェーラのマキノを何本か涙を飲んで諦めて、無理をしてでもNFCに通うつもり、と自分に言い聞かせるように決意表明。



『坊やに下剤を』(1931年)がどうしても観たいのに、今回の特集ではかからないと知ったので、えい、や!とDVD-BOXを買って、ついでにこれも一生観るからいいや、と思って『ピクニック』*2のDVDも一緒に買ってしまって、いつかの週末に立て続けにジャン・ルノワールの作品を何本も鑑賞して幸せな気持ちで一杯になっていたところだったのだけれども、『素晴しき放浪者』を観たら、ミシェル・シモンが本当に素晴らしくて、若き日のトリュフォーを熱狂させたというサイレント作品『のらくら兵』はぜひとも今回観なければ、と思っていたのだった。手書き文字の字幕と一緒に映し出されるイラストの愛らしいこと!



『のらくら兵』での、好色でおっちょこちょいの召使い演じるミシェル・シモンは、髪型のせいか髭なしのせいか、まだ若々しい雰囲気で、『牝犬』での神経質で気弱そうな売れない画家や『素晴しき放浪者』での粗野なのに優雅な放浪者ブーデュとも、見かけはまったく違っているにもかかわらず、まさにミシェル・シモン以外の何者でもないという感じで、登場するシーンで早くもにんまりしてしまう。髭がないので長いあごがさらに長く見えて、誰かに似ているなあ、と思ったら、そうだ、市川崑監督作品によく出ている伊藤雄之助であった。あ、でもあごが長いといえば、すぐに思い浮かぶのは山中貞雄、ということは、ミシェル・シモン山中貞雄は似ているのかなあ、などと、また例によってどうでもいいことをつらつら思いながら観る。ついでに、伍長役のポール・ヴェルサという俳優の、これぞ無声映画の醍醐味よろしく、やたらと白目を剥いて大袈裟な表情をするのを見て、そのぴったりポマードで撫で付けられた髪型も相俟って「あら、杉狂児にそっくりじゃない!」などと思った。無声映画の喜劇役者を見ているのは本当に愉しい。



俯瞰で撮っている枕投げのシーンなんて「あ、『新学期 操行ゼロ』だ!」と思ったのだけれど、もちろんルノワールの方が先な訳で、でも、大好きなルノワールの作品を観て、これまた大好きなジャン・ヴィゴの作品を思い出すことは、それだけで胸が高鳴り頬が緩む、ああ、何て幸せな瞬間なんだ!と思ってしまう。それから、気が付いたこと。この作品でキャメラはわりと頻繁にパンするしピントも甘いところがあって、ずいぶんと自由に動かしているなあという印象なのだけれど、そのことが却ってこの映画に躍動感というかリアルな生々しさを与えていて、無声映画なのに人々のざわめきやはじけるような歓声が聞こえて来るようで、フィックスショットに慣れ切っている身としてはなんだかとても新鮮だった、ということにもう少し早く気付いていれば、この1月にアテネフランセで観て「落胆した」という感想(id:el-sur:20080124)を綴ってしまった、成瀬巳喜男『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)*3にもまた違った感想を持てたのかもしれない。



映画がはじまる前に、ハンプティ・ダンプティみたいな老ルノワールと一緒に写っているフランソワ・トリュフォーの写真を眺めていたからか、ふと、『のらくら兵』を観ながら思ったのは、はじめは「動きがない」からという理由で小津安二郎の映画を評価していなかったというトリュフォーが、もしその時に後期の作品ではなく、サイレント時代の傑作喜劇『生まれてはみたけれど』(松竹蒲田、1932年)を観ていたら、きっとトリュフォーも手を叩いて喜んで小津を好きだと言っただろうなあ、ということ。

*1:本当は最終日に駆けつけてスクリーンに向かって「マキノのマアちゃん、たくさんの素敵な映画をありがとう!」って拍手しながら心の中で叫ぼうと思っていたのに雑務に追われて行けなかった、残念。

*2:それにしても、今回の特集上映で『ピクニック』がかからないのは本当に残念!FCでかかると思ってついうっかり日仏の上映を見逃してしまったのが悔やまれます。

*3:とはいえ、この作品はもちろんトーキーなのですが。