しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


映画メモ:


ジャン・ルノワール素晴しき放浪者』(1932年)を観て『お早よう』(1959年)の勇ちゃんを思い出す



そう、あの水と水と光のきらめきとが溢れ返っている眩いほどに美しい、ジャン・ヴィゴアタラント号』(1934年)での、落書きみたいなおかしな入れ墨をしてがらくたに囲まれて、まるでひっくり返ったおもちゃ箱なさがらの破天荒なひげもじゃ船員のように、水から救い出されてまた水に戻ってゆく、破れかけたズボンにぼろぼろのズボン吊りをした、だみ声のひげもじゃ放浪者ブーデュを演ずるミシェル・シモンの、その素晴らしさ!



シモンの身体の動きの何とアクロバティックなこと!ミシェル・シモンが机の上に腹這いになってみたり、壁に背中をくっ付けたまま両足を上げてみたりとあらゆる動きをしてみせるのを見つめながら、笑うというよりは、むしろ、あまりの動きの凄さに唖然としてしまう。セーヌ河に自殺を図って飛び込んだところを助けられたレスタンゴワ氏の良識あるブルジョワ家庭を引っ掻き回す、その野生児としての無秩序でアナーキーな振る舞いは、すぐさまわたしに『アタラント号』での船員役を思い起こさせ、ルノワールの映画を観てジャン・ヴィゴのシモンを思い起こすことはさほど突拍子もないことではないような気がするのだけれど、さらに小津安二郎『お早よう』での、映画のはじめから終わりまで一人秩序を乱し続ける勇ちゃん(島津雅彦)を続けて思い出してしまう、というのはいささか強迫観念めいた、いつものわたしの単なる思い込みのなす技というか、端的に言って小津映画の観過ぎ、いや、勇ちゃんを偏愛しすぎなのでしょうか。でも、勇ちゃんもミシェル・シモン演じる放浪者ブーデュのように水辺で手づかみで物を食べてみせるのだし、ミシェル・シモンが片足を軸にしてくるっと回ってみせたり、歩き回りながら何かを破壊せんばかりの威嚇にも似た素振りは、まるで勇ちゃんがあの廊下で全編に渡ってやってみせているもののようだし.....と、こんな風に思ってしまうのはわたしだけかも知れないけれど、ミシェル・シモンと勇ちゃんが何となく重なって見えたのだった。とか言って、名優ミシェル・シモンと島津雅彦演じる小さなギャング・勇ちゃんを比べたら怒られるかしら....。



ルノワールの映画には、人生の悦びと厳しさと真実とが常に共存している。冒頭のシーンで、よれよれの服を身につけて河辺のベンチに坐っていたブーデュに小さな女の子が母親に促されて施しをする、「これをあげなさい。不幸な人を助けるのよ」という母親のことばに押し出されるようにして。「なぜ金をくれる?」というブーデュの問いに「パンを買えるでしょ」と何の疑問も抱かずに朗らかに微笑みながら言う女の子。ここで素直に施しを受けるのを不思議に思いながら映画を観てゆくと、通りかかった高級車に乗ったブルジョワのポマードで髪をべったり撫付けた若い男にそれをそのままそっくり渡してしまうのだ、そしてこう言い捨てて立ち去る、「パンでも買いな」と!いや、鮮やかだなあ、この辺りのシーンにも唸った。



この作品で、ルノワールは映画が物語に依存するのを意図的に回避しているような気がする。そうでなくて、なぜ、あんなアンチ・クライマックスなラストシーンになるのだろう?ブーデュが居なくなってしまったことに意気消沈する二人の女(妻と元愛人)を両腕にかき抱きながら、自らを納得させるように、半ば諦念にも似た慰めのことばを口にするレスタンゴワ氏。そして、下から仰ぎ見るように逆光気味のカメラが映し出すのは、農民たちが唄を唄いながら歩いてゆくシーン、それでおしまい、いやはや。この短いシーン見るだけで、ルノワールは凡百の映画作家から遥かに遠く隔たって、物語に頼らずとも素晴らしい傑作(ルノワールを讃えるのに、そんな言葉ではとても足りないのだけれど、「素晴らしい傑作」などという、弱々しい言葉では。)を作り出してしまうということが判って、改めてその凄さに心が震えた、ある休日の昼下がり。