しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


市川崑を観て溝口健二のことばかり思い出す



土曜日、神保町シアター市川崑を観に行く。



市川崑日本橋』(1956年、大映



本当はサイレント時代の溝口健二日本橋』(1929年)が観たいけれど、それが叶わないので、せめて市川崑の『日本橋』でもいいから観よう、と思って神保町へゆく(ってのっけから追悼特集なのに酷いですね、すみません.....)。



雨に濡れた狭い石畳の露地の細路に、ふっと現れる駒下駄のからころと響く情緒たっぷりのシーンからはじまって、ラストも石畳の露地の細道を映すところで終わるという、全体的には悪くはないという印象だったけれど......でもやはりちょっとなあという感じ、以下二点。



まず配役。溝口のサイレント作品ではお考というヒロインの役を英パンもその演技を絶賛する梅村蓉子という女優が演じたのだけれど、この市川崑作品では、その梅村蓉子に何となく顔立ちが似ている淡島千景が演じたというのは、イメージ的にはよかったと思うけれど、淡島千景の声がなあ!どうみても陽性の響きでしっとりとした艶やかさに欠けるんですよね。淡島千景は好きな女優さんですが、やはり彼女には喜劇が似合うという印象で、芯がはがねのように強いところに、江戸女の粋と色気ともう少し「日陰の花」的陰鬱な魅力を兼ね備えた女優さんがやるとよかったのではないかと思います。じゃあ誰?と聞かれると難しいのですが。久慈あさみがいいナア!とすぐ思いつくのはマキノ『次郎長三国志』の観過ぎとして、はて誰か。とりわけ後半、最初はライヴァルの清葉への面当てに情婦(いろ)となったものの、次第に本気に惚れ込んでしまった美貌の医学生・葛木晋三に去られたショックのあまり、魂が抜かれて狂女となってしまうという一連のシーンにおける彼女を観ていると、どうしてもあの鬼気迫った狂女を演じた溝口健二『折鶴お千』(1935年)における山田五十鈴の、雨の降りしきる万世橋の駅のホームで、一人うつろな表情で身じろぎもせずにじっと一点を見据えるかのような、一目で気が違った女と判るようなあの凄まじいさまと比べてしまい、あの山田五十鈴が見せるぞっとするような凄さを思うと、やっぱり淡島千景のそれはだいぶ劣るよなあと思ってしまう。



あともう一つは、橋のシーン。原作で「春でおぼろで」「月の朧に」「朧を透かした霞の姿」などといった言葉で描写される、これぞ鏡花のロマンティシズム溢れる様式美とも言える重要なシーンの数々が、この市川崑作品ではほとんど「朧」な雰囲気が感じ取れなかったこと。橋の向こうに映る空模様も含めて、霧や霞に煙っているような質感が出ていないんだもの。またしても思い出すのは溝口健二『瀧の白糸』(1933年)での有名な卯辰橋のシーン。あの一連のシーンの、観ているこちらにまで、霞に煙ったような雰囲気としっとりとした夜露が肌に感じられるような素晴らしさったら.....ああ、今思い出しても素晴らしくてため息!まあ多分にここには英パン贔屓が入っているとは思われまずが(笑)それにしても。あの「朧」の質感がまったく感じられずに、これはセットです、みたいなチャチさがありありと出ていて、これは心底残念であった。クローズアップの多用もなあ、これは好みの問題ですが。なんかテレヴィみたいで安易な気がしてやっぱりわたしは映画でこれをやるのはあまり好きではないと思う。



葛木がお座敷で清葉に自分の姉さんになってくれと頼むシーンで、自分の身の上を語るのだけれど、そのエピソード(父親は死に、その看病疲れで母が病に倒れ、姉がお妾になってそのお金で一家を支えた云々)が、ほぼ溝口健二その人の生い立ちにそっくり!なので、ええーと思った。やや、これは市川崑と脚色した和田夏十の溝口へのオマージュなのか?と得意の早合点をしそうになったのだけれど、何のことはない、読み止しで放ってあった泉鏡花の原作『日本橋』を今回やっと最後まで読んでみて、ここは原作にほぼ忠実であるということが判った。最近、溝口健二の凄さに改めてうたれて、一頃、溝口健二に関する本(佐藤忠男溝口健二の世界』(平凡社)、依田義賢溝口健二の人と藝術』(映画芸術社)、四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』(新曜社)など)ばかりせっせと読んでいたので、すぐに思い込みで「これは!」と思ったのですが。原作を読んでみると、泉鏡花の描く世界というのは溝口にとって大変な親しみがあり、鏡花作品を三本も映画化しているのはこういう理由もあったということがよく判る。



溝口作品では岡田時彦が演じていた医学生・葛木晋三という役を演じていた俳優(品川隆二)は、落ち窪んだ瞳やすっと高い鼻など、どことなく岡田時彦に雰囲気が似ていてこれは英パンファンとしてはまあ納得がゆく配役であったのでほっとする。この配役が、それこそ前述した『折鶴お千』の夏川大二郎(特に眉上でまっすぐにカットされた髪型の少年時代が....)みたいな俳優が出てきちゃったらどうしよう?と思ってヒヤヒヤしていたのですが、これはまあ個人的にはよかった。『祇園囃子』(1953年)でもそうだったけれど、お酌の若尾文子も初々しくて可愛かった。



と、市川崑の映画を観ながらほとんど溝口健二の映画の話しかしていないような気もしますが、あ、でも一緒に観た『ぼんち』(1960年)は素晴らしかったです。中村鴈治郎がひょこひょこ歩いているのを観るだけで嬉しくなってしまう。やはりこの監督はシリアスな文芸ものより、スピーディーで小気味好さとユーモアが発揮されている作品の方が良いのでは?と個人的には思います。『プーサン』とか『穴』がとても楽しみ。



<追記メモ>『ぼんち』では溝口健二『浪華悲歌』へのオマージュにキャーとなる(これはたぶん思い込みではない)。道頓堀川の水面に映り込むのは、カフェー赤玉の"akadama"と風車のネオン!これは嬉しい。さらに、極私的に嬉しかったのは、越路吹雪の勤めるカフェーで鳴っている音楽は『道頓堀行進曲』で「わー、大大阪だ!」とこれまたにんまり。さらに、あ、また溝口だ!と思ったのは、空襲で焼け出された後、喜久ボン(市川雷蔵)が腹巻に入れていた全財産を自分の女たちに羽振り良く分けてあげる(エエ男やナア!)のだけれど、その中の一人で芸者ぽん太役の若尾文子が、目分量で積まれた人数分のお札の束をどれが一番嵩があるかと物凄いすばやさで床に額をつけんばかりにして見比べるという印象的なシーンがあって、これ『赤線地帯』のやすみそのまんまじゃん!と思ったのであった。あの『赤線地帯』の娼婦たちの中でも一番金に執着していたチャッカリ娘は若尾文子演じるやすみだったではないか。