しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

マキノ雅広『映画渡世 マキノ雅広自伝』天の巻・地の巻(ちくま文庫*1




お正月明けからすっかりマキノ熱にやられて、マキノ雅広『映画渡世』上下巻を、とある寒い冬曇りの一日に読む。何と面白い自伝なのだろう!図書館で借りて来て、どれどれ、試しに数頁、と思って読み始めたら、あんまりおもしろいので、そのままぐんぐん読み続けてとうとう寝床でも読んで一気に読み切ってしまう。マキノは勿論、八十時間(!)ものインタヴューからテープを起こし編集して「助監督」として付いた、山田宏一山根貞男両氏の三人の素晴らしい仕事に拍手を送りたいような気持ちで、感嘆のため息と共に本を閉じた。



これは、マキノ映画そのままの、涙あり笑いありの「生」の映画史なのだ。



解説文に書いてあるとおりまさに「日本映画草創期の熱っぽい混乱を駆けぬけた疾風怒濤の青春史」がぎっしり詰め込まれていて、豪華絢爛の登場人物(阪妻、千恵蔵、大河内傳次郎月形龍之介山中貞雄、その他大勢の俳優や裏方たち!)を眺めるだけでもわくわくしてしまう。この自伝そのものがマキノ映画である、と言ってもいいくらいのエネルギーと躍動感とに満ち満ちている。いちいち引用するか付箋を貼るかしたくなるようなエピソード満載、なのだ。



山田五十鈴が離婚後失意の中にあるマキノを前にして言ったセリフ「あんたの弟子だと自慢していた五十鈴が可哀相じゃない?」「今の妾には亭主があるけど、先生の理想の女房の一部にでもなれるなら、妾でよけりゃ、今の亭主と別れてあんたの女房になってあげてもいいのよ」とか、日活の『次郎長三国志』シリーズなのに、「法印はわしにやらせ」といって意気込んで駆けつけたけれど、東宝に怒られてションボリあきらめた田中春男(我が贔屓のバイプレーヤー)とか、もうねえ、いちいち泣ける。



それから、へえーと思ったのは、森岩雄についての記述。わたしはP.C.L.で撮られた愛らしいモダニズム映画が好きなのと、英パンの全盛期に作られた日活の現代劇ブレーン「金曜会」のメンバーの一人であったということで、森岩雄に関しては、岩崎昶『映画が若かったとき 明治・大正・昭和 三代の記憶』(平凡社、1980)や『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)などでその人となりを何度か読んでいて、今まで良いイメージしか持っていなかったのだけれども、マキノはかなり批判的な物言いをしているのが興味深い。



マキノが日活第一作『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』を撮った時、この映画のために、長門裕之が宝塚映画と契約していたのを、家出してマキノの家に逃げて来た話の中で、こんな風に書いている。

私は契約金三十万円を持って東宝森岩雄氏に会いに行って長門裕之をあきらめてくれるようにたのんだ。森岩雄氏は金を受け取ってから、私に「詫び状」を書けと言うので、書いて渡したが、苦笑せざるを得なかった。かつて彼がマキノトーキーから中野英治と山縣直代をPCLに引き抜いた時には、契約金も返さなければ「詫び状」を書きもしなかった。(中略)『めくら狼』の撮影中だって、彼の古文の滝村和男が金を払ってくれないので皆が困っていたのに、知らんぷりだった。紳士とは見かけだけのことをいうらしい。「第十章 兄と弟」(p.406)


もっとも、私の大好きな、10日で撮った傑作であるところの、『昨日消えた男』(1941年、東宝)のクランクアップ後の試写会のシーンはかなり感動的なのだけれども。

.....試写室の中から大拍手が聞こえて来た。
「マキノさァん!」「マァちゃん!」「おやじさん!」「どこです?正博さん!」と皆が口々に私を呼んでいる。(中略)ちょっと気の毒になって、
「ここにいまァす!」
と大声を出したら、皆が外に出て来た。森岩雄所長が最初に来て、
「マキノさん、有難う。傑作です。こんな映画は初めてです」
小国英雄も飛んで来て、私に抱きつき、
「正博!よくやった!」
私にとってはそれだけでもう十分なくらいよかったが、ふと長谷川一夫の顔が見えたので、近づいて行って、
「試写室がいっぱいで見られなんだ。どうでした?」
と訊くと、
「よかった。おおきに、おおきに」
との返事。山田五十鈴も側に来て、
「さすが先生や。これで、うち鼻を高うしてこましたるねん」
(中略)
デコちゃんー高峰秀子ーも近づいて来て、
「マァちゃんは、あたしがすばらしいと思っていたお嫁さんの轟さんよりすばらしいわ」
(中略)
「マキノさん、すみませんでした。今日までのことは何もかも忘れて下さい」と森岩雄が私に頭を下げた。「何もかも私の不勉強によるものでした。映画の編集がいかに大切かを知らされました。長谷川一夫さんに対してのキャメラの動きが見事に顔のアップをよけ、マキノ育ちの藤川君と西川君のライトのお蔭で、とても傷跡のある人とも見えませんでした。山田五十鈴君の芸者の色気もすばらしく、息をそろえた俳優諸君の演技も見事で、特に川田義雄氏はマキノさんのお蔭だと大変喜んでいます。それなのに、あなたに試写も見せられなかったこと、心から謝罪いたします。ザックバランになれなかった東宝に仕事の面での新風を吹き込んで下さったこと、滝村君を良いプロデューサーにして下さったこと、私からお礼を申し上げます......」
私は涙が出るほど嬉しかった。「第二章 職人気質」(p.68-70)


エエ話やナァ.....(←何故か関西弁)



などと、いくらでも引用したくなってしまう素晴らしい話の数々に心躍らされ胸打たれっぱなしだった。



ちなみに、誰にも聞かれていないのに勝手に答えますが、この分厚い上下巻本には英パンこと岡田時彦の名前は一度しか登場しません。マキノに入社した俳優のリストにその名が出てくるのみ。マキノはマキノでもお父さんのマキノ省三とは英パン、組んだことはあったけれど、マキノ正博の映画にはついに一度も出ることなく亡くなってしまったから。



でも、そんなマキノ正博と英パンとは実は映画の仕事以外で接点があったのです。



岡田茉莉子の母で、当時宝塚少女歌劇のスタアであった田鶴園子を巡って、英パンとマキノ二人は恋敵だった時期があったよう。これ、他の資料で一度も読んだことがないのでガセネタなのかも知れませんが....実際のところどうだったのでしょう?

宝塚少女歌劇が若い女性の人気を独占していた時代に、歌劇団で活躍していたスターの中に田鶴園子がいた。岡田時彦が彼女に惚れた、するともう一人恋仇が出現して、田鶴園子ひとりを二人で取り合う形になってしまった。
男は、大監督マキノ省三の息子であり、監督でもあるマキノ正博である。二人が田鶴園子争奪にしのぎを削ったが、田鶴園子は、お人好しのボッチャンであるマキノ正博より、少しばかりニヒルな貴公子岡田時彦を選んだ。
「やっぱり二枚目にはかなわない、おれも監督をやめて二枚目に転向しようか」とマキノ正博を嘆かせた。(祖田浩一編『好色家艶聞事典』より)

田鶴園子が、もし英パンではなくマキノを選んでいたら......なんて、想像してみるのもまた一興、ってそんなことに愉しみを見出すのはわたしくらいですか.....アハ(笑)失礼しました。