しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


<本日の英パン発見>




文芸評論家・十返肇の随筆に英パンのことが載っている!と知って、こうしてはいられないッ!とまたしても慌てて図書館に駆け込む。どこだ、どこだ、と眼をらんらんとさせながら頁を繰ると、ありました、その名も「岡田時彦氏のこと」。


十返肇『けちん坊』(文藝春秋新社、昭和三十七年)より


岡田時彦氏のこと

とかく日本人のあいだでは、
「金のことはよくわからない。自分の収入もよく知らない」
などという方が人気がよい。合理主義的に生活しようとしていると、「あいつはケチだ」というので人気がなくなる。
(中略)
人気とは、かならずしも実力に相応したものではないようだ。
しかし、今は昔、実力もあり人気もあり、それでいて相当な”けちん坊”であったスターがいる。
岡田茉莉子のパパ岡田時彦だ。昨年死んで二十五年目で岡田時彦を偲ぶ会が盛大に開かれたが、この”日本のヴァレンチノ”が、お金を大切にしたのは、病身で、いつ病床に倒れるかわからないという心配があったためらしい。それでも死んだ時には二百五十円しかなかったなどといわれている。
私は中学時代から、この時彦の大ファンで、当時禁じられていた映画見物に、彼の主演映画だけは欠かさず見にいったし、その随筆集『春秋まぼろし草紙』は、才気あふれる読物として愛読した。
上京して大学生になったばかりのころ、蒲田へ友人をたずねていったが留守なので、仕方なく近所にある麻雀屋へ私は入った。
ちょうど三人で待っている客があったので、そこに加わった。そして、ふとトイメンを見ると、それが、まごうことなき岡田時彦ではないか。私は、いささか興奮した。
かくてゲームは始まった。時彦氏の麻雀は、ガッチリ麻雀で、ほとんど冒険はしなかった。やっているうちに、私は煙草を切らしたので、
「おーい、おばさん、煙草くれえ......」
と怒鳴った。
すると、
「バットでよかったら、どうぞ」
と、岡田時彦が箱をさしだした。
私は遠慮なく一本もらったのを記憶している。その時の勝敗はどうであったか、もう忘れたし、時彦には以来一度も逢う機会はなかった。
彼の死後、ある酒席で映画ジャーナリストたちが時彦の思い出話に花を咲かせていたのに加わって、私もこの話をした。すると毒舌屋で有名な南部僑一郎が、
「それアおめえ、大変なことだぜ。エーパン(時彦の仇名)から、たとえバットの一本だろうが、全然の他人が貰ったなんてのは珍談に価するネ」という。
そこで私は、故人がきわめて私生活を切りつめていたということを知ったのである。もっとも口の悪い彼らによると、佐分利信氏は相手の煙草ばかり吸うそうだが、私が氏と対談した時は、そんなことはなかった。もっともその時の煙草は、対談を催した雑誌社が出した煙草であったが......。

なるほど、英パンはケチで有名だった。
この「けちん坊」列伝に名を連ねるのも、今までこつこつと岡田時彦についての文章を読んで来た私には判りすぎるほど判るので、ここで彼の名を見つけた時にはなんだかズバリで可笑しかった。



岸松雄『日本映画人伝』の中にも「岡田時彦は恐ろしいまでに金銭に執着をもつていた。だから時彦がおごるなどと云うことは稀だ。或る年、高田稔が植物園近くの洋食屋で初めて時彦におごられたと云う話は、友人間にセンセーションをまきおこした」というくだりがあるし、南部僑一郎も時彦名義で『新青年』に発表した文章のいくつかは自分の代筆で、それなのに、その原稿料をそっくり頂戴しようとした、と話している。



英パンは小さい頃から胸が悪く痩せて病弱だったので、二十代半ばにして「恐らくはそう長くはないであろう生涯」と自らの短命を決めつけているようなところがあった。ニヒリストと川口松太郎にレッテルを貼られるのも無理はなかった。そもそも、彼にはおよそ食欲というものがなかった。食通で有名だった当時まだ『映画時代』の編集者をやっていた古川緑波と脚本家の如月敏が、せっかく京都から上京したというので、英パンを銀座に連れ出して何か美味いものでも食べよう、と誘ったことがあったが、「何が食べたい?」と訊く二人を前にして、急に寂しそうな顔をしてこう言ったという、「さア、僕はお腹が空かないんだ。何でもいいよ」。



英パンが、もう少し食欲の人だったならば、もしかするともう少し彼の人生には時間が遺されていたのかもしれない、と思う。彼は人生の苦楽を共にする「たった一人の女」を探し求めて恋愛遍歴を重ね、その時々で熱烈に愛し愛され、恋し恋された。「たった一人の女」との愛を成就するためには死をも厭わない、場合によっては心中してもいい、と彼は『映画時代』の座談会でこう宣言して、山内光(=岡田桑三)や鈴木伝明や中野英治、川口松太郎古川緑波ら周囲をあぜんとさせている。そんな「たった一人の女」を探し出すことが彼の人生の目的だった、とも言えるかもしれない。その情熱を「食べること」に向けてくれていたなら....。こんなこと言っても詮無いことなのだけれど。



病弱で食欲に欠け、ただ恋の熱情に生きることに憧れた岡田時彦であったが、貧しい家の生まれの長男として、表向きは勘当されていたにもかかわらず、その細腕で、とにかく実家の家族のために稼がなければならなかったのだ。所詮、浮草稼業の活動役者風情、人気のあるうちが花、ならば、稼げるうちに稼ぐだけ稼いでおく、と英パンが考えたのはごく当たり前のことであった。



岡田時彦の「けちん坊」にはちゃんとした理由があったのだ。