しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

秋の夜長に英パンつれづれ



先月、新文芸座で指折り数えて楽しみにしていた、溝口健二『瀧の白糸』を観て、村越欣弥に扮した岡田時彦(特にクライマックスとも思える公判での訊問シーンのあの澄み切った表情ったら!)があまりにも素晴らしくて素晴らしくて、ほとんど熱に浮かされたかのように高ぶる気持ちを抑えきれず、こりゃいかん、ちゃんと冷静に作品を観る機会を作らねば、と思い、次の日すぐさまDigital Meme(http://www.digital-meme.com/jp/our_products/dvds/index.html)で、10月発売予定の Talking Silents 1 溝口健二監督『瀧の白糸』『東京行進曲』を予約注文したのだった。でも、とある方に教えていただいたのですが、マツダ映画社の保存しているこの作品は、ラストシーンで白糸が舌を噛んで自殺し、後を追うようにして村越欣弥が二人の出会った想い出の卯辰橋のほとりでピストル自殺するという場面が丸々欠落してしまっており、近年、フィルムセンターとIMAGICAによる共同作業でその部分を入れた最長版が復元されたとのこと。そんな経緯があるのだったら、まあ権利とか色々諸問題があるのでしょうが、活弁なしでも構わないから最長版でリリースして欲しかったなあ、とたいそう残念に思う。どこか最長版のDVDを出してくれるところはないものでしょうか。



さて、岡田時彦の遺作となった村田実監督作品『青春街』(1934年)は、『サンデー毎日』の懸賞小説を元に新興キネマの五大スター(中野英治・岡田時彦入江たか子・森静子・鈴木澄子)が競演する、といった(スチルとあらすじを見る限りたぶんこれは傑作ではない....)青春映画で、そのあたりの怪しいと思われる日付の『サンデー毎日』を、途中、小村雪岱岩田専太郎山名文夫の麗しい挿絵の数々ににんまりしながら、ひたすら延々と読み進めると、果たして、昭和八年十一月五日号には「映街散歩・僕と『青春街』」という岡田時彦のコラムが載っているのであった。この文章が、今のところ調べた限り、生前の岡田時彦による最後の書きものだと思う。英パンたら、最後の最後まで『蓼喰う虫』*1の話なんかして、谷崎へのオマージュを隠しきれずという感じで泣けますわ。

......例へていへば『蓼喰ふ虫』の老人とお久との関係、あんな風に枯淡では困るけれど、譲治と花売娘が一緒になったあかつきは、ヒョッとして安手な「老人とお久」が出来上がりはしないかーーと、さういふ具合に譲治の性格を解釈して行くと、「青春街」一篇もどうやら幅のある画になりそうな気がして来たのである。おしなべてこの国の映画は、出て来る人物がほとんど例外なしに子供っぽい戀愛をしているのが僕はいつも気に入らない。何故もっと大人っぽい惚れたハれたの手練手管を見せてくれないのだろうか、それが僕ははなはだ不満なのだ。(『サンデー毎日』1933年11月5日号、岡田時彦「僕と『青春街』」より)

文末には【編集者附記】として「本誌懸賞当選作「青春街」の譲二の役は岡田時彦君で撮影進行中、同君の病臥により途中月田一郎君に変更されました。この一文は配役変更決定前に病床で書かれたものですが、ひとまづそのまま発表いたします。」とある。英パンの代役は月田一郎!だったんだ。遺作は小津安二郎『淑女と髯』コンビだったのだなあ、なんだか因縁めいている気がする。こんな経緯もあって、月田一郎は「第二の岡田時彦」と言われたのだろうか。



そうそう、川喜多記念映画文化財団(http://www.kawakita-film.or.jp/)にて、英パンの追悼特集「故・岡田時彦追悼」の掲載されている『映画の友』(1934年3月号)を閲覧してきたのだった。



さっそく読んでいて「ええー」と驚いたのは、岡田時彦フィルモグラフィーの中に阪東妻三郎の『雄呂血』の名前が載っていて「其後、阪妻プロダクションに一時加入し阪妻不朽の名作『雄呂血』に助演」と書いてあるのである。jmdbを見ても、岡田時彦フィルモグラフィーの中には『雄呂血』は入っておらず、これは何とか確かめてみたいことのひとつとなったのだった。



追悼文の中からいくつか。


岡田時彦(田中三郎)
.....洒脱で、あく抜けた、軽い調子のユーモアを彼は此上もなく愛した。

ある晩一緒に散歩していた私たちの目前で可憐な小僧の乗ったリヤカーが円タクにしたたかに追突された。可哀そうに店に帰って小僧さんに叱られるだろうと、月なみの同情語を私は彼につぶやいた。すると、あの運転手、交番が近ければ十五日の勾留だが、と彼も珍しく街の公徳家ぶるのだ。まさかそんな規則もあるまいというと、イヤ、絶対に追突は十五日の勾留だ、サブちゃんその位のことも知らないの、と人を小馬鹿にするので、私も遂愚かしく理屈をいいはじめたら、

だって追突十五日勾留(一日=ついたち十五日公休)じゃありませんか.....

お兄さんを失くした気持(入江たか子
......日活時代から、岡田さんの演技には、全く感心しておりました。細かい心理描写などのうまさは、神技と云ってもいいくらいでした。「彼をめぐる五人の女」「足にさはった女」「日本橋」など、私は、時彦さんのファンでした。(中略)全く、やさしいお兄さんの様な気がします。それが、お約束した『神風連』の撮影が初(ママ)まっても、よくなっては下さらず、とうとう、お亡くなりになったと聞いた時、私はどんなに悲しかったか知れません。

よき仕事の上の共演者を失った気持ーそれよりも、芸の上の先生を、やさしい兄を亡くした様に思われて。さびしいさびしい気持です。

憶ひ出のはなむけ(岡田嘉子
私が初めて彼と識り合ったのは、確か十九の時だったと思います。大活の撮影所で谷崎潤一郎さんに紹介されました。(中略)その時、本牧にいらした谷崎さんのお家まで連れていってくれたのが英パンでした。紺絣の着物と羽織を着て、フラッと横浜駅に立っていたその時の英パンの姿が今でも判然印象に残っています。其後、彼とはさっぱり逢う機会もなく私は日活へ入社しました。そして或る日、ふと行き擦りに、或る映画館で見たシャシンの中で、見知らない岡田時彦と云う小柄で神経質らしい俳優の演技に感心させられました。彼を知ってい乍ら気の附かなかったのは、その以前には、彼は本名の高橋英一を名乗っていた上に、英パンのニックネームに相応しく、顔が円くて、そして坊ちゃん坊ちゃんしていました。ところが、岡田時彦となってから初めてスクリーンで私の逢った彼は、痩せた上に、いくらか眼も落ち窪んで、昔の面影は何処にもない、と云ってもいい位の変わりようでした。

(中略)こんなため、私も迂闊でしたが、彼が日活に入社して来て逢うまで、岡田時彦が、横浜の駅にションボリ立っていた紺絣の英パンだった、と云うことに気が附きませんでした。(中略)芝居をさせると、流石に、いつも巧いと思わせられたことです。恐らく、サイレントの映画俳優として、一番巧かったでしょう。それ程の演技を持った彼が、一本もトーキーを撮らずに、サイレントの名優として死んだと云うことは、心から残念に思われます。

(中略)昔、一緒に仲良く仕事に励んだ友の死を憶う時、その記憶を辿る原稿用紙の枡目も、泪でぼんやりと潤んで参ります。

追悼文の最後を飾るのは、松山英夫の「天国の主役に召されし英パンよ!!ー彼の死とその前後を語るー」という読みもので、これが(私にとっては)凄い。何しろ、悼辞を読む谷崎潤一郎の後ろ姿から、この『映画の友』編集長の橘弘一路名義の花輪や、お通夜の席に並ぶ鈴木伝明、中野英治、二川文太郎の写真まで余すところなく掲載されているので、ああ、本当にこうやって英パンは死んじゃったのだな、という事実をまざまざを突きつけられる。ここ数ヶ月のあいだひたすら図書館に籠って「英パン探し」に没頭していた身としては、頭ではちゃんと判ってはいるけれど、ていうかそもそも、あの頃居た人々はもうみんなとうに亡くなってしまっているのだけれど、それでも、やっぱり読みながら涙が出る。

......十三日に月田一郎が行った時には、やや、快くなったかと思われたが、一言二言話しているうちに、意識不明になってしまう。目覚めると突然、「映画を見せてくれ」と言い出し、「病気が治らなくちゃあダメですよ」と綾子夫人が言ったら、「持って来て、見せてくれ」と言ったそうである。

ーー英パンは、死ぬまで、映画を愛していたのだ。

十四日に、浅岡信夫が来た時には、殆ど意識不明だったが、伝明が、

「英パン、信さんだよ。わかるかい」

と言ったら、彼の顔をのぞきこんでいた浅岡から目をパンさして、枕元に坐っていた伝明と川浪良さんの顔をぐるっと見廻して、

「みんな信さんだ」

と、あの口もとに、人なつこい微笑をただよわせて言ったそうである。

意識がもうろうとしていた故ではあろうが、伝ちゃんも、川浪良さんも、信さんのように、みんな大男なので、これは洒落の上手だった英パンの、最後の洒落だったのだと、みんな、その言葉を、なつかしんでいる。そして、この「みんな信さんだ」と言った言葉が、英パンが、ききとれる程度に、はっきりと言った最後の言葉だったろうとも言われている。(中略)

それが、十六日の朝になって、どうしたものか、容態が非常によくなり、十時頃には、意識をとりもどして、中野や、伝明の顔を見ると、なにか、喋りたそうにするので、傍へよって「なにか、言い度いことはないか」と訊ねたが、唇を動かすだけで、ものを言うことは出来なかった。

けれども、容態は、昨日よりいいのでこのぶんなら、まだ二三日は、このままで持つだろうと、忙しい仕事を持っている二三人の人が安心して帰ってしまった。午後一時近くになって、急に容態が変わり、脈を握っていた、看護婦のすすり泣きの声に、綾子夫人、父、妹、親友の中野、伝明、稔、川浪良氏などが、暗然と涙をのんで、彼をみまもっているうちに、折から、窓外に降りしきる淡雪の消ゆるが如く、静かに、息を引きとってしまった。

英パンが、愛好していた古いガラスのこわれた柱時計が、一時五分を指していたとき。

最後まで、映画と洒落とユーモアを愛して亡くなった岡田時彦。意識が遠のいてゆく中でも洒落の心を忘れず大男三人を見渡して「みんな信さんだ」と言ってにっこり微笑んだという英パン。長谷川泰子がその著書の中で「岡田さんは浴衣にカンカン帽でしたが、四条通りを散歩しながら、そのカンカン帽を浴衣の背中に入れて腰をかがめて歩き、戯けて笑わせたりする愉快な人でした」と述懐していたのを思い出す。そして、あの小津安二郎の傑作喜劇『淑女と髯』の岡島役はそのまま岡田時彦自身に繋がるところがあったのかな、と思う。だから、あんなに素晴らしい演技だったのかも、とも。



英パンは、彼が生前もっとも好んで着ていたという、渋い縞の着物に角帯をしめた姿で荼毘に臥され、棺の中には、愛用の藤のステッキと、花札と、手提げ籠と、愛読書だった谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』が入れられた。



岡田時彦の訃報を聞いた小津安二郎は、「これから俺は何を撮ればいいのだろう」*2と言ったのだという。


*1:ISBN:4003105516

*2:ユリイカ』(2003年11月号)岡田茉莉子インタヴューより、小津の義妹・小津ハマさん談