しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

南部僑一郎『愛の国境線 炎の女 岡田嘉子』(ノーベル書房、1968年)より

ちょうどそのころ十二月の終わり、皇太子明仁がうまれた。まったく時を同じくして、京都から「時彦がもうダメなようだ。とにかくちょっと来い」という手紙が来た。わたしは信じられなかった。痩せて蒼白になっていたものの”もうダメ”という文字は考えられない。(中略)

とにかく京都に行った。岡田時彦は大阪赤十字病院に入院しているという。今年あれほどの映画をとった彼が、いっぺんにそのようになるものだろうか。(中略)

わたしが時彦の元気そうな姿をみたのは、ほんの三ヶ月ほど前、昭和八年の十月はじめだった。彼は新映画社が解散して新興キネマに入社した村田実監督の第一作『青春街』に出演していた。主演は中野英治と入江たか子、時彦は与太者の中野の親友と言う役だったが、そのセット風景は十年ぶりに古い日活風景を思い出させるものがあった。(中略)

時彦はときどき激しくせきこんだ。だがそのあとはけろりとしていた。

「どうも身体の調子がよくないよ。第一このごろあんまり酒がのみたくないんだ。こいつは悪い徴候だな.....積悪のむくいってとこだけどね」

(中略)

美しい秋晴れの午後だった。時彦は眼を細めて空をみあげていた。きれいな横顔で痩せてはいなかった。

「この秋はいいけど、時代が悪いや」

時彦は何を思ったか低い声でぼそっといった。(中略)ここの撮影所からも、毎日陸軍海軍から召集がきていた。どこの撮影所も似たようなものだったが。

大阪赤十字病院は外見より中身がみじめだった。岡田時彦の眠っている部屋の白い壁の下のほうにはシミがなにかの模様をえがいたようになっていた。(中略)

昭和八年の歳末に近いころ退院して神戸西宮の夙川に帰っていた。(中略)その夜東京に帰ると間もなく京都から、時彦がなくなったと電報がきた。正月の十六日の夕方だった。すぐ京都に立った。

若く数え年三十二歳だった。あの大きく美しい眼は二度とみることができない。中野英治たちにあって、臨終のもようを聞いた。(中略)

「追悼映画の会っての、京都から大阪、東京でやろうと思ってるんだ。おれたちや日活の連中もみんな舞台に立って.....」

「いいねえ、すぐ準備しようよ」

「映画はタダでかりて、あがった金は奥さんにおくる、ってことにすりゃいいだろう」

「賛成だ」

われわれは今夜ほかの連中を集めて、それぞれ走りまわることにきめた。

大正九年七月、横浜の大正活映の俳優募集で入社してからちょうど十五年目であった。苦しみと栄光のジグザグの路だった。(中略)

杉勇がとびこんできた。わたしの顔をみると、おうもう来たか、といい、

「どういうことになってんだ。小康をえたとかなんとかいっとったばかりなのに.....」

沈うつな何秒かが流れた。次々に人々が集まってきた。早速京都日の出会館に電話して一夕の約束をした。

その夜は超満員の盛況だった。入場料が割安のうえに、新興、日活の一流スターたちが仕事のないかぎり全員出て舞台で岡田時彦の思い出を話した。静かでさびしいが花やかな一夜だった。

牛原虚彦『虚彦映画譜五十年』(鏡浦書房、1968年)より

私の日活在社期間は、ほぼ一カ年半の短期間であるが(中略)最も忘れがたい想い出のひとつに、若く惜しまれて、この世を去った岡田時彦さんの死がある。
(中略)

昭和九年の一月、雪の降りしきる日、京都にいた私たちは、時彦危篤の報をうけ、直ちに阪神沿線、夙川の彼の寓居にかけつけた。中野英治、鈴木伝明、高田稔、私、それに当時、関西にいられた谷崎潤一郎先生などに見とられて、彼はこの世を去った。三十歳を出たばかり、今の岡田茉莉子さんが、この世に生をうけたばかりの時であった。(中略)

雪のしんしんと降りしきるその夜、先生は、火鉢の前に、厚い袖無し羽織に背をまるくして、はたの見る目も痛ましいくらい一言も発せられなかった。人が、ひとりこの世を去ったあとの、ひとしきりのどよめきと涙のあわただしさがすぎて、みんなが一応のおちつきをとりもどしたころ、雪は、ますますふりしきるばかりだった。突然、先生が、私を顧みていわれた。

「君、僕が岡田の戒名をつけてやってはいけないかね」

これは、まことに突然の言葉だった。映画俳優岡田時彦の名付親の先生が、高橋英一の戒名をさずけてくださる。故人と親しかった私たちにとっては願ってもないこと、異論などのあるはずもない。

「英パンも、さぞかし喜ぶことでしょう。お願いいたします」

私たちはほとんど異口同音に、そうお答えした。暫くの間、先生は、降りしきるさやかな雪の音に耳をすまされているかに見えた。

が、やがて、

「こう せつ いん、かおる ゆきの いん、香 雪 院とは、どうかね?」

と指先で漢字を書かれ

「こう、せつ、いん、とても彼にふさわしいと思うんだがね」

とちょいと微笑まれた。故人と親しかったみんなも、思わず微笑みかえしたのだった。

また、しばらく考えていられた先生は、みんなをふりかえると

「居士号だがね。雪が重なって、ちょいと、どうかと思うが、せつ えい こじ、ではどうだろうね。雪のせつ、おうへんに、はなぶさで、雪瑛居士」

これとて、みんなに異論などあろうはずはない。みんなが、お礼を申しのべると、谷崎先生は、

「牛原君、王偏にはなぶさ(英)、たしかに、そんな字あったね?」

「たしかに、ございます」

と、私が答える。

「僕も、そう思う。しかし念のため、辞書をしらべてくれないかね」

というお言葉。私は、故人の書斎から漢和辞典をもって来て、先生にお見せする。玉の光る意という字解である。

「よかった。安心した」

とおっしゃる先生。こうして、故岡田時彦こと高橋英一には。院号と居士号が、芸名の名付親、谷崎潤一郎先生によって、再びさずけられたのである。

岡田嘉子が、確か当時まだ『映画時代』の編集者だった古川緑波の取り計らいで、岡本山荘に居る谷崎潤一郎を訪ねた折りに俳優の品定めに話題が移り「時彦さん、どうです?」と聞くと、「好きだね。又、よくなると思っている。そう云っちゃ身びいきのようだけど....」と手放しで悦に入っていたという。(岸松雄『日本映画伝』)



この牛原虚彦の文章を読むと、そんな谷崎がどんなに岡田時彦を可愛がっていたかが判って胸がつまる。