しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

岩本憲児・佐伯知紀編著『聞書き キネマの青春』(リブロポート、1988)と岩崎昶『映画が若かったとき 明治・大正・昭和 三代の記憶』(平凡社、1980)を読んでいたらどうにもおもしろくて、昨年フィルムセンターで観た『西鶴一代女』はまあいいとしても、最終回ですべり込もうと思っていた溝口健二の凄まじいまでの傑作『近松物語』はDVDでしか観ていないのでぜひ今回スクリーンで、と思っていたのに、結局、本をメモを取りながら読み続けてしまう。



岩崎昶の本は、英パンに関係がありそうな箇所を拾い読みしているだけなので詳しい感想は後日述べるとして、『聞書き キネマの青春』の方は、そのテーマを日本映画における現代劇がどのように誕生して発達していったか、ということに絞って当事者の監督(牛原虚彦木村荘十二)男優(中野英治、島耕二)女優(紅沢葉子)から、映画を支えた脚本家(依田義賢)批評家(飯島正)デザイナー(河野鷹思)音楽家(服部正)に至るまで様々な立場から日本映画の黎明期にかかわった人々のインタヴューで構成されているので、それはそのまま、今のわたしの最大の関心事である1920年代から1930年代にかけてのモダニズム文化の息吹を感じ取れる証言として読むことができるのが、何ともわくわくする本。何かがはじまるときの高揚感としか言いようがないこの胸の高まりは一体どうしたことなんだろう?というくらいに、映画と出会って、格闘し、その時代を歩んで来た人々の話はわたしにとっては眩しく光り輝いている。それは、映画そのものがまさに「青春時代」を謳歌していたからだろうか。



とりわけ、ここ数ヶ月のあいだ、英パンのおかげで日本映画に関する本を集中的に読むようになったからか、1920年代の日活において大監督だった村田実(岡田時彦の遺作『青春街』の監督だというのもあるけれど...)が気になり出していたところだったので、その村田実を現場で見て来た俳優・中野英治と脚本家・依田義賢の二人の話は興味深かった。銀座で村田実にスカウトされ日活入りした中野英治は「村田さんが生きていたら溝口よりもはるかに上になった」と語り、依田義賢は逆に「村田実はバタ臭くて、翻訳調の<舶来>映画を輸入した過渡期の監督」という趣旨の発言をしている。何しろ、村田実の作品で現存しているのは『霧笛』『路上の精魂』の僅か二作品だそうだから、その全貌を伺い知ることは難しいのだけれど。言っても詮無いけれど、傑作といわれている『灰燼』(1929年)を観てみたかった。ゴードン・クレイグに影響を受けたという村田実はヨゼフという洗礼名を持つクリスチャンで、亡くなった時は目白の教会で(どこだろう?日本聖公会かしら)葬儀が行われ、中野英治や小杉勇が棺を持ったという。



それから、蒲田モダニズムの道筋をつくった立役者の一人、監督・牛原虚彦のインタヴューは何から何までメモを取りたくなるようなおもしろさであった。彼のデビュー作『山暮るる』はほとんど伊藤大輔との合作だったとか、島津保次郎は金持ちの道楽息子で馬に乗って撮影所に参上し「自称」ダグラス・フェアバンクスで皆に「ダグさん」と呼ばれていたとか、北村小松は模型飛行機作りやマンドリンの演奏も上手い大変なモダンボーイで日本の活動屋で一番最初にダットサンに乗っただとか、それぞれの顔を思い浮かべながら想像してにやにやしてしまう。


なかでも、柏美枝と清水宏の話が凄い。柏美枝(写真は鈴木伝明と共演した『昭和時代』(1927年)のスチル)という女優さんをはじめて観たとき「あ、ルルだ!」と思ったのだけれど、それは本当だったようで、牛原虚彦によると、当時『報知新聞』の記者という人が彼の姪を連れて撮影所に遊びに来ていたところ、あんまり彼女がルイズ・ブルックスにそっくりなので皆驚いたのだという。それで、牛原監督自らが『報知新聞』に出向いて頼みにいったところ、本人も女優をやってみたいというので大歓迎で蒲田に来てもらったのだという。しかし、鈴木伝明と組んで『昭和時代』(1927年)など数本出ただけで彼女は止めてしまう。婚約者から強い抗議が出てのことらしいけれど、勿体なかった、観てみたかった!と思う。昭和二年刊、朝倉惣吉『キネマの人々』を複製した『最尖端民衆娯楽映画文献資料集8』(ゆまに書房、2006)の柏美枝の欄には彼女のモダンガールぶりを「!」付きで絶賛する紹介文が載っているのを見るにつけても、現存している映画があればよかったのに、と思う。と、書いて、そうか、去年2006年に牛原虚彦『海浜の女王』が映画保存協会から復元されたではないか!とはたと気付く。ああ、観たい観たいのは『海浜の女王』の柏美枝!



さて、もう一つ凄いのは何と言っても清水宏スパイ容疑(!)。牛原虚彦によると、松竹の歴代トップの監督を追い出した張本人が何と清水宏だという。所長の城戸四郎に取り入ってあることないこと吹聴し、それがもとで1930年には牛原虚彦、1940年には島津保次郎、1941年には五所平之助がそれぞれ松竹を追われたという衝撃の発言。当時、清水宏には「火の見やぐら」というあだ名までついていたそうな。恐るべし、清水宏、あんな珠玉の瑞々しい作品を撮っている監督が.....ちょっと信じられないけれど....。



と、ここまで書き綴って明日はついに英パンこと岡田時彦に大写しのスクリーンで逢える日!
もうひと月以上も前から手帖に大きく赤丸付けてた溝口健二『瀧の白糸』新文芸座
どんなにこの日を待ちこがれていたことか.....!
ああ、胸が潰れそうに嬉しいのです、漆黒の闇に浸りながら一人心の中でエイパアンと呼びかけます。