しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

溝口映画を観ることは「義務」とエリセは言う



昨年スクリーンで観た映画で一番の衝撃だった溝口健二『浪華悲歌』(id:el-sur:20061215)『祇園の姉妹』(id:el-sur:20061204)が再びスクリーンにお目見えするというので、朝もはよから新文芸座に駆け込む。タイトルの文字の左下に小さく小津安二郎のデザインした日本映画監督協会のマークが見えてにっこり。



祇園の姉妹』も勿論素晴らしかったのだけれど、最近の興味の対象が断然1920年代〜30年代モダン都市文化なので、やはり今回の再見では『浪華悲歌』の方により惹き付けられた。



舞台は1936年のモダン都市・大阪、冒頭で盛り場のネオンが闇夜に映し出されるシーン。「花王石鹸」のネオンは以前観た時も「あ」と思ったのだけれど、今回「akadama」という文字も見えて「ああ、キャバレー赤玉だったのか!」と思う。そして、そうか、ここは道頓堀だったんだとやっとこさ気付く(相変わらず遅いよ....)。



山田五十鈴が囲われているモダンなアパートメントの部屋の天井に映し出される植物柄の影絵、図録でしか見たことがない「そごう心斎橋本店」のエレヴェーター扉に漆塗りが施された意匠、キッチンに立ちながら口笛で「セント・ルイス・ブルース」を吹く山田五十鈴、など昨年観た時には見落としていた「モダン都市・大大阪」の細部に目を凝らすことができて何とも嬉しい。



「英パンを探せ!」目的で読んだ、山本嘉次郎『カツドウヤ自他伝』(id:el-sur:20070829)だけれど、その中で山本嘉次郎が取り上げていたエピソードの中に、月田一郎のことがあってそれが英パンと結びつけられていたからか、妙に印象に残ったのだった。月田一郎はその繊細な芸風から、山本嘉次郎曰く「第二の岡田時彦」と呼ばれていたらしい。月田一郎?はて、名前を何処かで聞いたことあるなあ、と思って、はっと気づいた。そうか、小津安二郎『淑女と髯』(1931年)で岡田時彦演じる蛮カラ青年の友人役で出ている品のよい顔立ちの俳優なのだった。



その月田一郎が以前、伊藤大輔監督作品で共演した山田五十鈴と結婚していた時期があったということを、Wikipediaか何かで読んだことは覚えていたのだけれど、さらに調べてみると、『浪華悲歌』の撮影を終えたらきっぱり女優を止めて家庭に入ると約束していたにも関わらず、この作品によって、芸に生きるべく演技の目を開かれた山田五十鈴は月田一郎との約束を反故にし、続く『祇園の姉妹』にも出演して大女優への道を進むことになったのだという。一方の月田一郎は妻がめきめきとスタア女優になってゆくのとは対照的に俳優としては鳴かず飛ばずで失意のうちに酒浸りになり、結局、山田五十鈴とは数年で破局する。そして、終戦の数日前にようやく新しい妻をもらうが、新婚だというのに毎日酒ばかり呑んで暮らし、ある日メチルアルコールをそれとわかって飲んで、新婚わずか一ヶ月でほぼ自殺のような形で死んでしまう。

彼には一生思いつめた女がいた。その女は、映画界では最高のスターになっていた。いまさら、思いをかわすよすがもない。彼は、それをあきらめるために、細君をもらったのである。しかし、それはかえって彼の心を苦しめるもとになった。女への思いがつのるばかりである。その苦しさからメチールを呑んだのであろう。(山本嘉次郎『カツドウヤ自他伝』p.197)

このくだりを読んでからの今回の映画鑑賞だったので、あの素晴らしき『浪華悲歌』でまるで後光が差しているかのように光り輝く山田五十鈴を見つめながら、その裏にひっそりといた月田一郎という俳優のことを思って、しんみり切ない気持ちになってしまった。



さて、そんな個人的な話はさておいて、最後に、蓮實重彦山根貞男編『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI 2006」の記録』*1の中から、溝口映画にまつわる心が震えるようなエピソードを披露したビクトル・エリセの言葉を引いて、



「私たちには何が遺されたでしょうか。すべての偉大な巨匠たちと同じように、彼の映画が遺されました。彼の映画を見なければなりません。むしろ義務であると言い換えてもいい。溝口映画を見ることは義務なのです。」(ビクトル・エリセ