しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

<本日の英パン発見>



山本嘉次郎『カツドウヤ自他伝』(昭文社、1972年)


英パンとプロダクションを立ち上げたこともある山本嘉次郎については、以前の日記*1でも取り上げたけれど、これはその『カツドウヤ紳士録』(大日本雄弁会講談社、1951年)と『カツドウヤという名の人類』(東成社、1953年)『カツドウヤ水路』(筑摩書房、1965年)の三冊を新たに編み直したもの。巻末の索引を見ると、やっぱりという感じで「岡田時彦」の名前が!うきうきと頁を繰ると、何とエーパンについての単独エッセイを発見して、キャーとなる。

英パンの巻


東宝の前から、バスに乗ったら斉藤達雄と香川京子に会った。斉藤達雄と話しているうちに、いつしか二人の共通の友であった英パンの、懐旧談になってしまった。


英パンとは、岡田時彦である。かれこれもう、二十年も前に亡くなった。いま売り出し中の岡田茉莉子の年から繰ってみればわかる。長女の彼女が生まれて間もなく、彼は世を去ったから。(中略)


英パンは、日本映画界はじまって以来の名優である。二枚目として、たぐいまれな美貌をもっていた。天性の美貌の上に、天才的な演技の持ち主である。この二つともそろっているということは、滅多にあるものではない。


斉藤達雄の話によれば、彼が始めて松竹の蒲田へ移り、小津安二郎君の監督で、斉藤達雄と共演したことがあったが、彼の演技の素晴らしさに、あのうるさい小津君が一言も言わなかったばかりか、一カットごとに感嘆していたそうである。実際、見事といおうか、一緒に共演していてむしろ、肌にゾッと粟を生じるような、凄さを感じたと、斉藤君はいっていた。(中略)


彼は音楽好きであったので、音には良い耳を持っていた。フランス近代派のデリケートな音楽でも、彼はすぐにおぼえて、口笛で吹いていた。正しい、そして、美しい音であった。


英パンは、文才にも長けていた。軽妙な、そして皮肉な随筆を書いて、本職の文士から舌を巻かれた。言葉の洒落や、当意即妙のジョークも上手であった。そればかりか彼の毒舌と来たら、相手の心臓をグサリと突いて、許すところがなかった。冷たい、理知的な、凄まじい男だった。


ある夏、彼と仕事をしたことがあった。他の俳優は、暑いセットの中で、すぐ汗をかいて、化粧がたちまち流れてしまうのに、彼だけは汗もかかず、夕方まで化粧も崩れなかった。彼の肉体までが、蛇のように冷たく感じられて、うす気味の悪いおもいがした。不世出の名優というものは、こういうものであろうか......。


彼は、三十一、二の若さで死んだ。晩年、彼の名演技は、ますます冴えた。あまりにも、割り切れすぎ、理につみすぎて、見る人にも冷めたい感じを与えるようになった。ファンは敏感である。巧さに舌を巻くが、前ほど彼に、熱狂的な拍手を送らなくなった。人気が下火になって来た。彼は、これに気がついた。彼には、二つの方法があった。このまま、人気が落ちようと、理性的な演技をどこまでもつきつめてゆくか、あるいは、ファンの熱望に応えるような甘いロマンチックな演技に切りかえるか.......彼はそのどっちでも出来る男であった。


彼はそのどっちをえらぶだろうか.......われわれがそれを見守っている最中、彼は、忽然と去ってしまった。彼は、少年時代から胸を病んでいたのだった。


........こんな話を、斉藤達雄としていると、隣りでジッと聞いていた香川京子が、なんとなく溜息をついて、いった。


「みんな、あたしの生れない前の、お話ネ」


ああ、やっぱり英パンってば凄い......!


読み終わって、感激のあまり鼻の奥がつんとして泣きそうになる。愛情のこもった、いい文章。英パンより一つ年上、銀座生まれの慶應ボーイで、戦後の作品はは見るべきものがない、とか、器用貧乏で「ナンデモカジロウ」とか揶揄されたこともある(らしい)山本嘉次郎だけれど、わたしは断固として、このカツドウヤにして粋人・山本嘉次郎を支持したい気持ちになる。エノケンと組んだP.C.L.時代の作品群もちゃんと観なきゃ、と心に誓う。


英パンと共に過ごした人による、英パンの話が聞きたくて、それでまるで「こほろぎ嬢」みたいに地下の図書館に籠って思いッ切り自己満足以外の何ものでもない「英パンを探せ!」の旅に出かけたのだけれど、その過程でこの文章に辿り着けたことが、本当にしみじみ嬉しかった。共演した斉藤達雄に「ゾッと」するような凄さを見せつけ、あの厳しい小津安二郎にはワンカットごとに「感嘆」されたという岡田時彦。英パン、わたしが思う以上に物凄い名優だったのね。


英パンにまつわる「ちょっといい話」を幸運にも目にすることができて、ますます今後の「英パンを探せ!」にも精が出るというもの。

*1:id:el-sur:20070706