しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

岡田桑三=山内光のこと その弐



母の教会人脈がもたらした岡田桑三の豊かな文化環境については、本当に羨ましくなるほどに様々な出会いがあるのだけれど、特に個人的に興味深かったのが大橋家(横浜弁護士会会長・大橋清蔵とその妻・繁子、養女の房子)をめぐるもの。大橋夫妻は実子をはやくに失ったあと、繁子の実家から彼女の末の妹にあたる房子を養女に迎えた。1909年、十三歳で房子は大橋家の養女となり、芝公園の実家から横浜市常盤町に転入した。岡田桑三が母の意向で指路教会の日曜学校に通い始めたのがちょうど同じ頃で、六つ年上の房子は桑三に姉のような気遣いをみせたという。大橋房子は十六歳で洗礼を受け、1915年、青山学院英文科に入学する。矯風会『婦人新報』に応募した「男女貞操論」が一席に入選し、ガントレット恒子女史の秘書を務めるようになる。同じ頃、村岡花子も東洋英和に通いながら矯風会に関わっていたという。1920年代に入ると、房子はガントレット恒子と矯風会の活動もさることながら、恒子の弟・山田耕筰と親しくするようになる。房子は山田耕筰や、夫となる佐佐木茂索を桑三に紹介すると、山田耕筰は今度は岡田に土方与志をひきあわせた。山田耕筰は当初留学先をパリと考えていた桑三に、舞台美術を学ぶならばベルリンだ、と説いたという。その背後に大橋房子がいた。大橋房子は1925年、芥川龍之介の媒酌で佐佐木茂索と結婚。結婚後はペンネームを用いて「ささきふさ」名義で、昭和モダニズムの女性作家として活躍をはじめる。ささきふさと岡田桑三が友人だったなんて!


モダニズム文化、マルクス主義文化運動のなかに。新興写真、報道写真のジャンル再編に、写真の国際的配信運動のなかに。グラフィズムや映画におけるソビエト・ロシア、欧米諸国との文化交流のなかに。平時の文化宣伝、戦時下の対ソ宣伝、対英米宣伝、旧満州国および大東亜共栄圏宣伝活動のなかに。澁澤敬三のアチック・ミューゼアム、南方熊楠全集編纂のミナカタ・ソサエティなど民俗学研究グループのなかに。岡田桑三はいる。(川崎賢子原田健一共著『岡田桑三 映像の世紀 グラフィズム・プロパガンダ・科学映画』p.4)


わたしがこの岡田桑三=山内光という人物にもっとも心惹かれるのは、彼がーそれは良くも悪くもということになるのだろうけれどーアマチュアイズム的な自由闊達な精神で「これだ」と興味を思ったものには、すぐさま行動を起こし、ともかく実行してみるというところで、それはしばしば縦割りのジャンルやイデオロギーを越境してゆくようであったから、そのことがこの岡田桑三という裏方的プロデューサーの実像を判りにくくしているのだと思う。



クロポトキンを読んでアナキズムに震撼し、十六歳で大杉栄に面会し、それらのことがのちのちまでも彼の人格形成のなかで一つの核となった、というような人物が、その大杉栄虐殺を企てた張本人である甘粕正彦の元で仕事をするということを決意する、その心の動きを推し量ることは容易ではない。 甘粕正彦岡田桑三木村伊兵衛を介して会見することになった、と本文中にあるが、そこで甘粕がどのような条件を提示して岡田を説得したかは判っていない。ただ、甘粕正彦というワンマンの強力な後ろ楯の元、満州映画協会という組織に属してカラーフィルムの開発に携わることは、彼が二度に渡るソビエト行きで目論んでいたフィルム輸入に関して果たせなかった部分を補遺し、さらにその先を行く「ものづくり」の夢を大きく掻き立てただろうことは想像できる。



戦後、彼と長きに渡って交流した考古学者の江上波夫岡田桑三のことを述懐して「ひと言でいえば、夢の多い人」だと語ったそうだけれど、何となくそれが判るような気がする。



さて、わたしの手に負えないような小難しい話はこれくらいにして、岡田時彦の友人としての、活動俳優・山内光についてもう少し。1926年4月、岡田桑三は京都日活大将軍撮影所の門をくぐる。芸名「山内光」という名前は、活動役者になるにあたりアドバイスをしてくれたふたりの先輩、山田耕筰小山内薫の名前から山田の「山」と小山内の「内」をとったのだという。そして「山内」の字面がシンメトリックであることを考え、名も映画に関連し単純で左右対称なのがよかろうということで「光」にしたのだそう。(p.118)山内光としての最初の作品はのちに岡田時彦主演でハイセンスな作品群を撮ることになるアメリカ帰りの阿部豊監督作品『陸の人魚』であった。共演は、梅村蓉子、砂田駒子。京都に行く前に、劇作家の鴇田英太郎が、新橋のおでん屋で「英パン」こと岡田時彦に会ってくれよ、と岡田桑三に言ったそうだが、撮影所に行くと、日本人離れした彼の容貌を見て、英パンの方から声をかけて来たという。それから、「能書屋桑兵衛」こと岡田桑三と「ムッシュウ・カモフラージュ」こと岡田時彦との交遊がはじまることになる。この交遊は二人が丁度揃って日活から松竹蒲田へ移籍したあとも続いた。脚本家の如月敏が雑誌『蒲田』に書いたコラムにはその名も「山内光君と岡田時彦君」*1というのがあり、片や英国人の血が四分の一混じった教養豊かでノーブルな二枚目で、片や共演者に「怖いくらい美しかった」「近寄り難くて」(夏川静江)とまで言われた憂いを帯びた二枚目の二人が、藤沢駅から連れ立って東京行きの列車に乗って来た、というその状況を想像してみるだけで、キャーとなってしまうのだった。ああ、英パン...!(って、最後は結局これですか)


*1:ちなみに、松竹蒲田で二人が共演しているのは牛原虚彦作品『若者よなぜ泣くか』(1930)のみのようです。フィルムセンターの所蔵映画検索システムにかけると何とフィルムは現存しているじゃあありませんか!キャー、観たい、観たすぎるー!英パンと山内光の夢の共演!ああ、上映してくれないか知ら。こうなったらフィルムセンターに投書するわ!