しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


<本日の英パン発見>

中原中也との愛―ゆきてかへらぬ (角川文庫)


長谷川泰子中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』*1

椿寺の下宿は学生が多かったけど、一階には女優の葉山三千子さんが松山とかいう日活の俳優を一緒に住んでおりました。二階と一階だったんですけど、一軒の家だからすぐ仲よくなりました。私はまだ人慣れのしないころでしたが、部屋に招待してくださって煮物などごちそうになりました。
葉山さんのところへは、岡田時彦さんもときどき遊びに来ておりました。あの方は岡田茉莉子さんのお父さんで、そのころはそう有名じゃありませんでした。

「この人が岡田時彦さんよ」

葉山さんに紹介され、私はすぐ友だちになれました。岡田さんには文学青年のころがあったようで、谷崎潤一郎佐藤春夫の二人が、岡田時彦という名前をつけたということでした。けど、友だちは”エイパン、エイパン”と渾名で呼んでいましたね。

「うちの下宿にも遊びに来なさい」

私は岡田さんにこう誘われたから、遊びに行きましたし、一緒にブラブラ散歩に出かけたこともありました。あのときは中原も一緒だったかな、岡田さんは浴衣にカンカン帽でしたが、四条通りを散歩しながら、そのカンカン帽を浴衣の背中に入れて腰をかがめて歩き、戯けて笑わせたりする、愉快な人でした。

長谷川泰子のことは、文壇のゴシップ的な興味で、中原中也小林秀雄という二人の凄い才能に愛された「運命の女性」だったということしか知らず、今回、英パンのことが何やら書いてあるというので、はじめて彼女の書いた文章を読んでみたけれど、中原中也と同棲しながら、マキノ・プロで大部屋女優をやっていて、しかもその後、松竹蒲田に移り、陸礼子の名前で清水宏作品『山彦』(1928年)に出演していたと知って「おお!」となる。陸礼子という芸名も清水宏が付けてくれたのだそう。しかもこの作品は、慶應出の松竹蒲田きってのモボであるところの北村小松が潤色をやっているし、そんなところも合わせて気になります、ってこれもまたしても残念ながら失われた映画なのだけど。清水宏の失われた作品にはその名もずばり『ステッキガール』(1929年)なんていうのもあって、「ランニング姿にキンカン頭」(田中絹代)でいつもダンディだった小津とは違い、およそモダンボーイからかけ離れた風貌だったという清水宏にもかなりモダン都市文化への目配せがあったと思われる。モダン都市文学のアンソロジーとしては最も代表的な作品で世界大都会尖端ジャズ文学シリーズ『モダンTOKIO円舞曲』(川端康成、久野豊彦、堀辰雄吉行エイスケ龍胆寺雄、ささきふさなどの物凄いラインナップ)に収録されている、久野豊彦「あの花!この花!」を清水宏も読んだのだろうか?とか何とか海野弘先生の祝・復刊(!)『モダン都市東京 日本の一九二〇年代』*2を読みながらつらつら思う。



この「椿寺の下宿」というのは、椿寺の住所を調べてみると「京都市北区一条通り西大路東入る大将軍川端町2」とあるので、京都の日活大将軍撮影所のほど近くにあったと思われる。巻末の年譜によると、1924年、彼女が二十歳の時に、当時十七歳(!)だった中原中也とここで同棲した、とあるので、英パンが「椿寺の下宿」に彼女や葉山三千子を訪ねたり、連れ立って散歩したのは1924年だったということになる。1924年岡田時彦フィルモグラフィーを見ると、マキノ等持院の作品に出ていたころだから、龍安寺近くに夏目香代子と住み、高田稔と友人になった頃かな。それにしても、こんなに程近い場所に日活とマキノと二つの大きな撮影所があったなんて、京都は本当に日本のハリウッドだったのだな。ああ、京都に行きたし、行って京都の映画の歴史を歩きたい、とのおもいが頭をもたげる。