しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


しつこいようですが....。


<本日の英パン発見>


内田吐夢『映画監督五十年』*1

 谷崎潤一郎先生にはじめてお会いしたのは、横浜元町の大正活映のセットの中だった。それは丁度、先生の第一回作『アマチュア倶楽部』の撮影中だった。(中略)谷崎先生は、その頃小田原に住んでおられたが、本牧海岸に居を移して来られた。二、三軒おいて当時有名な横浜チャブ屋のキヨ・ハウスがあった。先生は薄給の私たちに、それとなく気を使われて、よく御馳走に呼んでくださった。奥さんは料理がお上手で、そのころ先生は糖尿を患っていられたので、塩で味をつける中国料理がことに美味しく、その味は未だに忘れられない。(中略)やがて、『アマチュア倶楽部』も完成して、ヘッド・タイトルに栗原先生と谷崎先生のシルエットが下図になっていたことを覚えている人も、もう少なかろう。

「野良久羅夫は二枚目の芸名ではないね」と、岡田時彦岡田茉莉子の父)と名づけられたのは、谷崎先生だった。先生は岡田君の才能を高く買われて可愛がられていた。しかし、それを顔に出したり、また、他の者と区別されるようなことは決してされなかった。先年、熱海の先生宅に伺った時、岡田君の話が出て、「もし、トーキーまで岡田君が生きていたら、どんなセリフ廻しで芝居をしただろうね」と、いわれたが、先生の岡田君を惜しまれる愛情の深さに、思わずホロリとした。

内田吐夢の文章はしみじみ優しさに溢れてて泣けるんだよなあ。ほんとに谷崎潤一郎を慕っていて「私の最後のたった一人の先生」と呼んでいる。英パンの名前は最初は本名の高橋英一→野良久羅夫→岡田時彦という変遷を経たのね「のらくらお」は確かにいただけない。今、「小田原ライブラリー」に収録されている服部宏『トーマス栗原 日本映画の革命児』*2を読んでいるけれど、大正九年1920年)から松竹に吸収される大正十一年(1922年)までわずか2年間という短命ではあったものの、大正活映が生んだものというのは決して小さくなかったんだなということを改めて思う。谷崎潤一郎が文藝顧問として関わり、のちの監督ではマキノ映画の井上金太郎や巨匠・内田吐夢が居て、日活のドル箱スタア岡田時彦を生み、英パンが鈴木伝明や高田稔らと揃って松竹を去った後に主役級に抜擢された江川宇礼雄や国内初のトーキー『マダムと女房』に出演しその後はロッパ一座でもおなじみの喜劇俳優のスタア、渡辺篤まで居た。トーマス栗原のもとに集まった映画人の多彩さを見るにつけ、肋膜を病みながら迸るような熱情で憑かれたように映画を作った(大正十年の一年間に製作した映画は何と二十本にのぼるという!超人的)この人の高い志と映画という新しい輝かしい未来に満ちあふれた総合藝術に対する情熱がひしひしと迫ってくるようで、読んでいて思わずホロリと涙ぐんでしまう。それなのに、彼が眠っているお墓すら未だに判らないなんて。切ないなあ、悲しいなあ。トーマス栗原はもっと評価されていい映画人だと思う、あ、でも観られる作品がないのか....がっくり。ちなみに、トーマス栗原の「トーマス」は、小津安二郎も文字通りシビれてこの映画を観たことをきっかけに活動屋になろう!と思ったという『シヴィリゼーション』(1916年)を撮ったトーマス・H・インスから採っているのだそう。



岡田時彦も出演している、泉鏡花原作・トーマス栗原監督作品『葛飾砂子』(1920年)につき、淀川長治先生は「いまでも『葛飾砂子』が日本映画の最高と思っている。」(『中央公論』平成十年十一月号)と述べているそう、「そんなしゃれた映画はそれまでなかった。」