しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


またしても、岡田時彦のこと



岡田茉莉子が生まれたのは(1933年/昭和8年)。英パンは彼女を「魔子」と名付けたかったらしいが、周囲に反対されたらしく「繭子」とした、とのこと。「魔子」と聞いてピンと来て調べてみると、1931年に『改造』で発表された龍胆寺雄の『魔子』がちょうど此の年に単行本として出版された。谷崎潤一郎の本をむさぼるように読む文学青年だった*1岡田時彦はきっとこの小説を読んでいたに違いない、と思う。個人的には、龍胆寺雄のこの小説から採っているとしたいところだけれど、もしかすると大杉栄伊藤野枝の子供の名前から採っているのか知ら、という気もする。と、思いめぐらすと、確かに英パンが谷崎宅にて「岡田時彦」という名前をもらった時、その場所には佐藤春夫伊藤野枝の前の夫だったダダイスト辻潤も居たそうだから、そこはかとなく因縁の香りもしないでもない、と結論づけるのは穿った見方か知ら?



三谷憲正「『大庭葉蔵』という《美貌の青年》物語ー岡田時彦の影をめぐって」(昭和文学会, 『昭和文学研究』37集, 1998年9月)という論文で述べられているのは、何と太宰治人間失格』の主人公「大庭葉蔵」のモデルが岡田時彦なのではないかという驚くべき推察。太宰の『人間失格』なんて中学生時代に読んだっきり(太宰なんて、こう言っては何だけれど、皆一度は通過儀礼のようにして触れる「はしか」のようなもので、若さゆえの気恥ずかしさと自意識過剰とが全面に押し出されているような文章を、大人になって読み返したいなんてこれっぽっちも考えたことなんてなかった、『女生徒』は今でも好きだけれど。)なので引用されている部分も全く覚えていないけれど、確かにこうして並べられると岡田時彦『春秋まぼろし草紙』の中の「女を語る」という章で綴られているエピソードにそっくり。『人間失格』の前に書かれた、太宰治『あさましきもの』*2というエッセイがその部分の原型とも言えるもので、文中で「岡田時彦」の名前をそのまま出している*3し、この説はもしかすると本当かもしれない。



岡田時彦『春秋まぼろし草紙』(1928年/昭和3年)より

僕は一人の好ましき十八歳の娘さんを知つてゐます。朧な春の宵のことで、ト或る下街の酒場で独りそこはかとなき酔心地に浸つてゐた時、フと僕は危く忘れるところだった其の娘さんとの約束を思ひ出しました。(中略)歩きながら、実は此のお嬢さんが幾度となく、兎角患ひ勝ちな僕の健康を案じて酒を断つやうにと云つてくれる心意気に打たれて、つい一週間ばかり前に以後断然禁酒することを彼女に誓つたばかりの今夜だと気がづいたのです。(中略)
「XX子さん、御免なさい。実は僕は今夜少しお酒を飲んだんですよ。」
(中略)ところが彼女はただほんのりと笑つてゐるばかりです。其処でもう一度、
「ね、御免なさい。仕事のことでちょっとクサクサしたものだから。」
と改めて恐縮したのですけれど、娘さんは依然として物静かに笑つてゐるのです。(中略)
「イヤなひと。来るなり早々ひとを嚇かしたりして。」彼女はやつと口を聞きました。「さ、お約束のベティ、ブロンスンを早く聴かして頂戴。」
「ええ。ま、話は話としてほんとに御免なさいね。もう飲まない。今度こそ飲まない。」
「あら、まだからかふおつもり。お酒を飲んでゐるかゐないかぐらゐあたしにだつて解つてよ。」
娘さんはまだ笑つたままです。
「ほんとに飲んだんですよ。そら、顔が赤かアありませんか?」
「どうですかそんなこと。何と仰言つたつてあたし信用しませんわ。あんなに固く約束したんですもの。」
「だから済まないんです。息を嗅いだらすぐ解るんだがな。」
「嘘よ、嘘よ。あなたなんか嘘を仰言つても駄目。」

太宰治『あさましきもの』(1937年/昭和12年)より

たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」と呟(つぶや)いて、うつむいた。うれしそうであった。「僕の意志の強さを信じて呉れるね?」男の声も真剣であった。娘はだまって、こっくり首肯(うなず)いた。信じた様子であった。
 男の意志は強くなかった。その翌々日、すでに飲酒を為した。日暮れて、男は蹌踉(そうろう)、たばこ屋の店さきに立った。
「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。真実わるい、と思っていた。娘は、笑っていた。
「こんどこそ、飲まないからね」
「なにさ」娘は、無心に笑っていた。
「かんにんして、ね」
「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」
 男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」
「たんと、たんと、からかいなさい」
「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」
 あらためて娘の瞳(ひとみ)を凝視した。
「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの。飲むわけないわ。ここではお芝居およしなさいね」
 てんから疑って呉(く)れなかった。

太宰治人間失格』(1948年/昭和23年)より

けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。
「いけないわ、毎日、お昼から、酔つていらつしやる」
 バアの向いの、小さひ煙草屋の十七、八の娘でした。ヨシちやんと言ひ、色の白い、八重歯のある子でした。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑つて忠告するのでした。
(中略)
「やめる。あしたから、一滴も飲まない」
「ほんたう?」
「きっと、やめる。やめたら、ヨシちやん、僕のお嫁になつてくれるかい?」
(中略)
 さうして翌(あく)る日、自分は、やはり昼から飲みました。
 夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちやんの店の前に立ち、
「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじやつた」
「あら、いやだ。酔つた振りなんかして」
 ハツとしました。酔ひもさめた気持でした。
「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔つた振りなんかしてるんぢやない」
「からかはないでよ。ひとがわるい」
 てんで疑はうとしないのです。
「見ればわかりさうなものだ。けふも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」
「お芝居が、うまいのねえ」
(中略)
「顔を見なさい、赤いだらう? 飲んだのだよ」
「それあ、夕陽が当つてゐるからよ。かつがうたつて、だめよ。きのふ約束したんですもの。飲む筈が無いぢやないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」

川口松太郎によってニヒリストと断じられ「映画史上最高の二枚目」と言われた美貌で頭脳優秀で文学青年でもあったキネマ俳優、岡田時彦。しかも、たった30歳という若さであっけなく死んでしまう。確かに、こういう要素を書き出してみると、小説の主人公として太宰が描くにはうってつけのモデルだったという気もする、彼がセンティメンタリストだったという所も。

ともかくも、皆一様に、ウラ錆れた艶も悲しきOMOIDEの萬華鏡、憶出のオルゴウルの音色はなべて侘しいものである。
岡田時彦『春秋まぼろし草紙』


*1:大正八年末(1919年)に当時小田原に住んでいた谷崎のところに出向いた時も「作家志望」だったらしく、俳優になりたいとは思っていなかった、と『ユリイカ』(2003年5月)の岡田茉莉子インタヴューにあるけれど、前掲の『徳山たまき随筆集』の中に「彼は活動俳優、我は声楽家」と夢を語り合ったという記述があるので、本当のところはどうなのでしょう。

*2:http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/240_15059.html

*3:「男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。」という一文で終わる。