しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


ムッシュウ・カモフラージュ/岡田時彦『春秋まぼろし草紙』(前衛書房, 1928年



岡田時彦という名前の、もうとっくの昔、70年以上も前に亡くなった夭折の二枚目俳優にここんとこいよいよお熱なのです。


五代目菊五郎が亡くなったちょうどその日、明治三十六年二月十八日に東京・神田で生まれる。女優・岡田茉莉子の父で、谷崎潤一郎をして「美少年にして眞に頭脳の優秀な者」と言われ、たいそう可愛がられた彼。断髪洋装のモダンガールが舗道をハイヒールで闊歩していた昭和二年、喜劇俳優になる前の古川緑波が編集をやっていた『映畫時代』の人気投票で阪妻に四百票以上も差を付けてトップに躍り出たサイレント期のスタア。



品のある端正な甘いマスク、何処か深い憂いを帯びて孤独を内に秘めた文学青年的な雰囲気に今更ながらもうクラクラなのであります。それに、彼は喜劇もよくした。髭もじゃの蛮カラ学生がスマートな美男子ホテルマンに華麗な変身を遂げる、小津安二郎『淑女と髯』(1931)の可笑しさったら!ああ、しかしながら、彼に逢うことのできるフィルムの何と少なきことか...!わずか30年とちょっとという短い生涯のあいだに、74本もの映画に出ているのに、現存するフィルムがわずか両手(もしかして片手?)で数えられる位しかないなんて、とりわけ、相性の良かった阿部豊のフィルムが全く残っていないなんて...!山中貞雄の映画が3本しか観られないのと同じくらい悲しい。



願わくば、漆黒の闇の中銀幕の上で大写しになった彼に会いたしと思へど、なかなか機会がない。それならば、せめて彼の書いた文章でもいいから読みたい、と思い、読み始めたのは自伝的著作『春秋まぼろし草紙』。序文を彼を映画芸術の道に引き入れた谷崎が書き、布張りの黄色にすみれ色にエメラルド・グリーンのクレパスで描いた縞模様のような可愛らしい装丁を佐藤春夫が施したという凝った書物。のちの「千代夫人譲渡事件」(通称:小田原事件というらしい)を思うと何だかこう、ざわざわした気持ちになるけれど、それはともかく、その二人の文学者に可愛がられたのが岡田時彦だった。ちなみに、彼の愛称「英パン」(エーパン)は、銀座の金春館に『アマチュア倶楽部』で共演した葉山三千子(本名は小林せい子)と一緒に映画を観に行った際に中売りが「えー、パンにおせん」と言ったのを、佐藤春夫が茶化して「エーパンにおせいと言ってるよ」と言ったところから来ているという説と、「岡田時彦は別名を「英パン」と云った。本名が高橋英一と云う極くつまらない名だったので、せめて派手に英パンとつけたまでである。映画館の中で、「エーパン」「エーオセン」と中売りが呼んで歩く。あれから「エーパン」と云う名が発生したという説をなす者もあるが、彼はパンが嫌いだった。」(岸松雄『日本映画人伝』)という説とがある。どちらが本当なのかはもはや判らないけれど、「パンが嫌い」だからという理由で佐藤春夫説に異を唱える岸松雄が可笑しい。




さて、本文。やや気障なきらいはあるにしても(こんな美麗端正なマスクですもの!仕方のないこと→)いやはや、俳優が書いた文章とは思えないような、スマートな文章ではないですか。『新青年』に発表した岡田時彦名義の小説は実は渡辺啓助の手によるものだったらしいけれど、こちらはきっと代筆ではないでしょう。



此の時、岡田時彦は未だ25歳。


夜、ぶらッと街へ歩きに出掛ける。
四條河原町で電車を降りて足の向くままに丸山の方へ歩き出す。
と、酔漢が一人、擦違ひさまに「いよ、モダアン・ボオイ」と喚く。
凡そ此のモダアン・ボオイといふ言葉くらゐ不愉快な輸入品はない。殊に此の土地では、髪に油をつけてさへゐれば、一概にもうそれで流行に伴ふイヤ味を含んでのモダアン・ボオイと相場を踏まれてしまふらしい。尤も此處の京極界隈や大阪の心斎橋筋道頓堀あの邊一帯には、随分怪しげなSoda fountain sheikや脂ッこいdance houndの一味が横行してゐる(中略)


そこで、まづまづ神戸である。
定石を行くやうで月並だけれど、ま、取敢ず元町を一と通り流してから居留地へ出てレイン・クロフオドかヒルを、無論これは素見で、それからユウハイムでお茶でも喫んだら、パラマウントかファアスト・ナショナルを襲って試寫を観せて貰ひ、外は既に夕昏であるといふのでぐッと引返してアカデミイでダイスを転がしながらスタウトをいささか。其の時分にはたいてい街に灯がはいつてゐなければならない。其處であとはもう適宜に紛失するがいい。タイを直してK・N・Kへ走る輩もあるだらうし、No,2 of 2のベルを押す奴もあるだらうし、ーーと、まあ我々活動屋仲間の神戸に就いての常識はおよそ此の域である。 
僕も、今日は御多分に洩れずまづアカデミイの扉を押す。オレンヂ・エイド。いいえ、温いの。客は他に一人もゐない。

ああ、神戸の「アカデミーバー」!
1922年創業で、洋画家の小磯良平や詩人の竹中郁が通っていたという老舗バーを知ったのは、常日頃から愛読しているふじたさんの「日用帳」*1京阪神遊覧日記においてだった。マア、素敵!次回の神戸訪問時にはきっと訪れなきゃ、と心に決めていたところだったので、ふたたびの邂逅におお!と驚き嬉しい。我が愛しの岡田時彦も通っていたというのなら、これは何としてもわたしも、ええい、近日中は無理としても今年度中にでも行かねばならないのよッ!そして、お店では温いオレンヂ・エイドを頼むのッ!と固く固く心に誓ったのだった。



それにしても、フィルムが失われた今となっては言ってみても詮無いことだけれど、彼のデビュー作、栗原トーマス監督作品『アマチュア倶楽部』(1920)だけでもいいから観てみたいなあ。あの淀川長治先生も『淀川長治 究極の日本映画ベスト66 』(河出書房新社)の中でもその名を挙げているし、「もう一度、何としてでも観たい粋な粋な映画。でも、何処にもフィルムが残ってないの」と、熱く語っていた*2という『アマチュア倶楽部』。ああ...!牛原虚彦『海浜の女王』みたいに、何処かの家の蔵の中からとか、外国でもいいからひょっこり見つかったりしないのか知ら。



色々と調べていたら、岡田時彦とロッパは年こそ違えど、ちょうど同じ日に亡くなっているのだな、一月十六日。