しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

夕刻、早足で渋谷駅をひたすらまっすぐに通り抜けてシネマヴェーラへ。
時間ぎりぎりに間に合って、渋谷実『自由学校』『酔っぱらい天国』を観る。



『酔っぱらい天国』(1962)


「あの」笠智衆にあんなドタバタをやらせるなんてーという感じで、割と気の毒で観ていられない気持ちに。だって、ラストシーンなんて拘置所の中で酒に酔ったまま気を失ったように寝ている笠智衆の俯瞰ショットだし。ええー、こりゃ随分と救いがないなあ、って。津川雅彦倍賞千恵子もどちらもあまり好きな俳優ではないし。ちょい役で出てくるほっそりとした芳村真理が、黒猫のようにしなやかで、瞳が好奇心で始終くるくる回っていそうな雰囲気のコケティッシュな美女で可愛かった。



『自由学校』(1951)


今回のお目当て。原作は獅子文六、と言いながらこの作品は未読なのですが。のっけから、わたしの大好きな高峰三枝子がヒステリックに怒り狂いながら、グータラ亭主の佐分利信を張り倒さんばかりに罵倒していて「ああ、わたしの好きな高峰三枝子が.....がっくり」と思ったけれど、映画が進むにつれ、気が強くてインテリで品の良い奥様風な感じに戻って行ったので、その点については、ほっとひと安心。最後に「負けたわ」といって佐分利信にすがりついてむせび泣きながら「うちに居て頂戴」と懇願するのも可愛い。


佐分利信は家を追い出されて橋の下で生活する内に、ひょんなことから関わってしまった麻薬密輸の一味により「会長」に仕立て上げられ、「会長は合図をしたとき頷けばいいんです」と言われるのがまるで象徴のように、冒頭で「自由になりたい」とボソっと言ったあとは、もうほとんど「ああ」とか「うん」とかそんなのばかりでほとんどろくに台詞がない。その分を淡島千景佐田啓二のアプレ・コンビや杉村春子がやんややんや騒いでいるといった印象。


「悲観しちゃうナア!」「悲観だなあ!」という当時の流行語?を連発する、夢見がちでお馬鹿な佐田啓二のおねえ言葉は、小津っこのわたしにはかなり衝撃的。キャンディ・ボーイだなんて!彼の相棒でフィアンセ役の淡島千景は、ちょっと「飛んでる」現代娘をやらせたらピカ一と思う。当時はああいう若者もたくさん居たのだろうけど、今見ると二人ともまるでちんどん屋のようなのが可笑しい。特に、チェック地の上にまたチェックを重ねてしまう佐田啓二のファッションセンス。松井翠声と高橋豊子のインチキ芸術夫婦も素晴らしい。この二人はほんとに名脇役だよなあ。大磯の叔母のところへ風呂敷包みを手に出かけてゆく高峰三枝子、海岸の砂浜の松林とその青い影のあいだを縫うようにして歩く。きちんとしたツーピースに黒いハンドバッグ、ああ、松林といえば、思い出すのは素晴らしき成瀬巳喜男の『歌行燈』。横須賀線、銀座・歌舞伎座の前を走るちんちん電車、お茶の水湯島聖堂と聖橋。


渋谷実の映画は、実ははじめて観たのだけれど、割と俗っぽいんですね。俗っぽいというか、時代の風俗や流行を反映している、と言った方がいいのか。確かに、小道具とか(壁を飾るレコードジャケット、何処となく洋風の出窓のある家、トリスバーetc)は割と「おっ!」とおもしろかったけれど。


それにしても、「小津安二郎に次ぐ松竹ナンバー2の座を木下恵介と争った」というような意味のことが紹介文にあったから、割とどんなものかと期待をしていたのですが、えっと、この一位と二位の差はかなり大きいんじゃないか知ら?と思う。何と言うか、渋谷実の映画は、まあ、面白いとは思うけれど、観終わった後に別にたいして何も残らないというか....うーん。いっそのこと、振り切れた傑作喜劇になるためにはもうちょっと脚本と台詞が練れてないとねえ、とか生意気にも思った訳です。


言うまでもないけれど、小津作品は違う。同時代に松竹という同じ映画配給会社で撮り、使っている俳優もほとんど似たり寄ったりなのに、ほとんどまったくと言っていい程に違う。『麦秋』で杉村春子原節子に向かって「紀子さん、パン食べない?、あんパン」というあの短い台詞に何度観ても涙がこぼれるのは何故なのか*1その違いは何なのか?と考えたら、小津映画は、はじめから終わりまで、前田英樹のことばを借りれば、「倫理」につら抜かれているからだと思う。小津自身のことばを借りれば、それは「もののあはれ」ということになるのだろうけれど。

*1:はじめてこれを観たとき、思い浮かべたのはレイモンド・カーヴァーの『ささやかだけど、役に立つこと』だった、この短編もじんとするほどに素晴らしい