しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


瀬川昌久『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』(清流出版)を読む。


凄い本。
こちらがまだ齧りはじめの初心者だということもあるけれど、今まで固有名詞がてんでんばらばらに散らばっていたのが星座のようにひとつひとつ繋がってゆく。章を読み進めるに従って、それらが繋がって行く過程をわくわくしながら目で追うことができる、その何という贅沢さ、素敵さ。結構なヴォリュームなので、まだちゃんと読んでいないところもあるけれど、とにもかくにも「!」と思った部分を走り書きメモ....のつもりがたいそう長くなってしまう。



・井田一郎のチェリーランド・ダンス・オーケストラは松竹キネマ専属となり、松竹蒲田映画にも出演した。浅草に帝国館ができるまでは、蒲田映画の封切館は電気館だったので、映画の合間の実演を呼び物として演奏したそう。電気館といえば、小津のデビュー作『懺悔の刃』から『肉体美』までの封切館*1で、素晴らしき河野鷹思デザインのポスターやチラシなどの図録で何度か名前を目にしていたけど、井田一郎のバンドが出演したのは1928年4月12日からで、手元の資料によると、小津の『若人の夢』がちょうど電気館で同じ年の4月29日から封切られた、とのことなのでもしかして、小津映画の合間にも井田一郎のバンドが演奏したのかなあ、と思いを馳せるだけでにやにやと嬉しくなる。しかも、独唱は二村定一だったっていうし!わーん、こんな素晴らしい映画と音楽の共演、この目でしかと観てみたかったなあ。



1928年はじめにカナダ人のミュージシャン、アーネスト・カアイが来日したとき、レッド・エンド・ブルー(益田太郎男爵の子息、益田四兄弟を中心に結成された慶応のカレッジバンドで紙恭輔もいた)主催で、カアイをゲストに開かれた演奏会には牛原虚彦や鈴木伝明、八雲恵美子らも駆けつけたという。彼らは皆ジャズ狂だった。八雲恵美子は無声映画時代の女優さんの中では顔立ちが細面のしっとり美人でいいなあと思っていたのですが、ジャズ狂だったなんて!びっくり。不良モダンガールといってすぐに思い浮かぶのは、伊達里子の方なのに。八雲恵美子はどちらかというと夢二の美人画に出てきそうなはんなり和風美人で、ジャズなんぞ聴かないような大人しそうな娘に見えるのに(これもサイレントの恩恵?)じつはしっかり時代の先端をゆくモガだったのねえ。



・作家をはじめ、画家や漫画家、映画人、音楽家、ジャーナリストなど時代の先端をいくハイカラ人種たちがこぞって集まった溜り場のような場所が赤坂溜池のボール・ルーム「フロリダ」だった。「フロリダ」については、久米正雄だったか新興芸術派の短編が載っている本の中で名前を目にしたことがあるのと、松竹のモダニズム時代を飾った脚本家・北村小松がそこのナンバーワン・ダンサーのチェリー嬢と結婚した、というのを小津文献で読んだことがあるくらいだったので、色々と「フロリダ」の歴史を興味深く読む。来日したチャップリンもここを訪問したらしく(そしてチェリー嬢と踊ったらしい)何処でもいつの時代でもそうだけれど、やっぱり支配人の人望と識見で集まってくる人やお店の雰囲気が決まるのね。モダン都市・東京の社交場を作った「フロリダ」支配人・津田又太郎という人の名前を覚えておこう。



・1933年から35年頃に活躍した人気タッパーの林時夫が最初に出演した映画は、1933年、国産トーキーがようやく普及したころで、松竹蒲田がオール・トーキーで送り出した島津保次郎監督作品『頬を寄すれば』だった。北村小松原作のモダニズム満点の現代もので主演は岡譲二と及川道子。音楽をふんだんに使い、主題歌の『陽気な運転手』を二村定一が独唱した。



・1934年9月、文藝春秋の雑誌『モダン日本』創刊5周年を記念して開催された「モダン日本祭り」のメンツがため息モノに凄すぎる!おもな出演者は以下の通り。


司会:松井翠声 
漫談:菊池寛 
珍合唱万才:榎本健一二村定一 
漫談:大辻司郎徳川夢声市川猿之助 
声帯模写古川緑波
落語:柳家金語楼 
舞踊:高田せい子 
ご挨拶:高田稔、入江たか子 
ほかに実演:市川春代杉狂児、大川平八郎、藤原釜足


凄いなー、菊池寛エノケン・ロッパに二村定一徳川夢声に高田稔に入江たか子...!もうこれは大変なメンツ。エノケンとロッパが同じ舞台に立つことも珍しい気がします。



・二世シンガーの川畑文子が出演している渡辺邦男の映画『うら街の交響曲』(1935・日活)、これは観たすぎる。原作はサトウハチロー、唄に当時ジャズシンガーとして売り出し中だったディック・ミネ。主演は小杉勇杉狂児、テイチク・ジャズバンドが全面的に演奏しているという。川畑文子の踊りは子供の頃から天才的だったらしく、13歳ですでに一流劇場にてソロで踊り、小津が好きな監督として挙げているキング・ヴィダーからも「踊りの場面に出演してくれないか?」と誘いがあったとのこと。川畑文子の舞台稽古を観たニューヨークのRKO支配人は「顔立ちは映画女優シルヴィア・シドニーと瓜二つだ。声はあの独特の凄みを持っているマレーネ・ディートリッヒにそっくりときている。そして踊りはフランスであの有名なジョセフィン・ベイカーのようだ。それで年がこんなに若い」と嘆声を上げたらしい。これまた観てみたかったなあ。そう言ってばかりでも仕方がないので、せめて2007年に手に入る彼女の音源*2でも聴くことにします。



と、あとからあとからこうして書いてゆくと切りがなさそうなのでもうお仕舞いにしますが、この本ではわたしの大好きな「あきれたぼういず*3にもかなり頁を割いていたのが嬉しかった。「あきれたぼういず」が分裂してしまった過程に関しても、詳しいことは知らなかったのでいちいち「へー」だの「ほー」だのと頷きながら読んだ。あれは吉本と新興の引き抜き合戦のさなかの出来事だったのね。そして、当時の新興キネマで引き抜き部長(!)役をやっていたのはのちの大映の所長・永田雅一だったんだ、「へー」!

*1:田中眞澄編『小津安二郎全発言(1933〜1945)』(泰流社)より

*2:ASIN:B000HRLV0Y

*3:小林信彦『日本の喜劇人』によると、小林秀雄も「あきれたぼういず」を観て「人並みにゲラゲラ笑い乍ら、これが現代だ、とふと考えていた」と著作の中で書いているらしい。