しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


吉村公三郎『暖流』(1939年・松竹大船)


素晴らしかった。
当時はまだ日本では珍しかった女性の自我の萌芽という西欧的な主題をフランス近代劇のような流麗なタッチで描くという、劇作家・岸田國士の原作を映画化した作品で元々ベテランの島津保次郎が監督する予定だったが、急遽、東宝に引き抜かれたために当時まだ28歳という若さで数本のB級映画しか撮ったことのなかった吉村公三郎にお役がまわってきた、とのことだけれども、この全編にみずみずしい感性が溢れる格調高いメロドラマとなったのは、かえってまだ駆け出しの吉村公三郎が撮ったことが、上手く転んだのではないかという印象を持った。


佐分利信高峰三枝子コンビというと、小津安二郎『戸田家の兄妹』をすぐさま思い起こすけれど、そして脚色の池田忠雄まで同じだけれど、この二人の主役ともう一人の主演女優・水戸光子の愛らしさが何と言っても素晴らしい。その映画に佐分利信が出ているというだけでなんだかいつもにやにやと嬉しくなってしまうのだけれども、この映画では大病院の令嬢で教養を身につけた(だって、原書でチェーホフ桜の園』とか読んでいるのです!素敵ねー)聡明な近代的女性であるところの高峰三枝子とその病院に勤務する看護婦で純朴素直で愛らしい水戸光子のふたりの美女に惚れられるというおいしい役どころで、でも純二枚目というよりは二枚目半くらいの佐分利信が演じると、なんだかおかしみがあり、不思議と嫌みな感じがしない。高峰三枝子は『戸田家の兄妹』でもそうだけれど、本当に品の良さがその端正な鼻から口にかけての曲線に滲み出ているし、ディートリッヒのような少し腫れぼったい瞼の奥できらりと輝く瞳も常に知性の閃きが感じ取れるようで、こういう知的美女の役をやらせたら天下一品だと思う。まるで向こうの女優さんみたいにちょこんと載せた帽子ーこういう帽子をボネっていうのか知ら?のよく似合うこと!水戸光子の看護婦役は元々田中絹代か三宅邦子をあてるつもりだったのが予算の関係で会社側に「水戸光子にしておけ」とか何とか言われた関係で彼女に決まったそうだけれど、結果的に水戸光子が演じたことが大へんよかったのではないか知ら。純朴素直な愛らしい役を演じるには田中絹代じゃあ演技力が凄すぎて均衡がとれなさそうだし、三宅邦子もああいう役をするには知的すぎて似合わないと思う。水戸光子の演じる看護婦はひたすら佐分利信の信頼を得ようと健気にまっすぐな可愛らしい女性で、その愛らしさに胸を熱くした世の男性はたいそう多かったらしい。


ラストシーン、全身白の洋装でほっそりとした脚を露にしてマチコ巻きをした高峰三枝子が実は自分も佐分利信のことが好きだったと告白したあと海岸の砂浜に裸足で駈けて行って頬を伝う涙を拭うようにして波打ち際で顔を洗うシーンはこれぞ映画の名場面としてわたしの心に刻まれた。


溝口映画の数々の名作を手がけた脚本家・依田義賢がこの作品を溝口と一緒に観に行った時のことをこう話している。

彼の作品は、みな好きですが、処女作『暖流』からして感動させられました。溝口さんと一緒に浅草で見ました。その帰り道、溝口さんが「よく平気でいられるね。」と言いますから、「どうしたんです。」訝って聞きましたら、「どうもこうもないよ。あの映画を見て何とも思わないなら、君はシナリオを書くのをやめることだね。」と嫌味を言いました。(新宿映画祭『吉村公三郎ノ世界』プログラム(1991)より)


溝口健二の興奮具合が伝わってくるいい話で読んでいて嬉しくなります。こういうエピソードは大好きなのですが、それはともかく、吉村公三郎はもっと評価されてもいい監督だと思いました。扇情的でおもしろいから判るけれど、やっぱりハスミンの本ばっか読んでちゃダメでしょう、と思いますよ自戒も込めて。その弊害(ハスミンが言及していないから何となく別に観なくてもよいのではないかという思い込み)でわたしもこうして吉村映画に触れるのが遅れてしまったわけですが。


個人的には今後、日本映画に関しては丹野達弥に私淑してみようかなあと思っています。彼のマキノ雅弘を紹介しながら*1酢豆腐(インテリ)批判が確かに的を得ていてカッコいいの何のって!いちいち頷きながら読みました。曰く、「巷間、登場人物がことあるごとに泣きわめく六部以降の評判がいいらしい。これこそインテリの考える”庶民"像だ。シリーズ最高は第一作『次郎長売り出す』に決まってる。」ですって、そうなのかー!(がーん、第一部は見逃している)

*1:新書館『映画監督ベスト101日本篇』の中に掲載、編者は他にもたくさん居るのに一人気を吐いているのが爽快