しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


早退けしてフィルムセンターで溝口健二『女優須磨子の戀』。今回の溝口特集でこれだけは観たい!と熱心に思っていたのだけれど、はたと立ち止まって考えてみるとどうしてそう思い込んでいたのやら判らない。主演は(特に好きな女優さんではない)田中絹代だしなあ、とつらつら反芻してみると、どうやらわたしは勘違いしていたようで、『マダム・Xの春』の深尾須磨子と松井須磨子を混同していたみたい...とんだ須磨子ちがいでした。それはともかく、映画の方。いつも小津映画で人の良い酔っぱらいおやじかお隣の電気屋のご主人といった役でしか観たことがなかった東野英治郎が立派な坪内逍遥を演じていて新鮮だったのと、島村抱月役の山村聡の、真ん中分けの長めの前髪が苦悩で歪んだ額にはらりと落ちるその陰を帯びた美しさ(←八割方はたぶんわたしの妄想)をたたえた演劇青年っぷりの素敵なこと!山村聡原節子と組んだ、成瀬巳喜男『山の音』のおじいちゃん役のインパクトが強かったので、これまた新鮮。田中絹代は情念の女・松井須磨子をまさに適役といった感じで演じていたけれど、やや大げさな演技がどうもなじめず、何となく違和感をもったまま映画を見終えてしまった。情念の女を演じても『西鶴一代女』は素晴らしいと思ったのになあ。

それよりも、島村抱月の後を追って縊死してしまう悲劇の女優、松井須磨子その人について興味をもった。最初は別に演劇に入れ込んでいた訳でもなく、たまたま夫が演劇青年だったからという理由で演劇の世界に足を踏み入れた彼女が、演劇という芸術に目を見開かれ、のめり込むあまり、家事いっさいをおろそかにして、とうとう夫に愛想を尽かされてしまうほどになる。演劇一筋になった彼女は、坪内逍遥の演劇研究所第一期生となり、イプセン『人形の家』の主人公ノラを演じて、あたらしい女性の目覚めを体現、世に認められるようになるというのだけれど、イプセンといえばデプレシャンのあの素晴らしい『エスター・カーン』もそうだったよなあとぼんやりと考えてから、叔父さんのことを思い出した。

わたしはじつはイプセンを読んだことがない。天窓からあかるい光が差し込む祖母の家の屋根裏部屋で、埃の細かい粒子がきらきら光って空気中に舞っているのが見えて、死んだ叔父さんの残していった荷物のなかから酸化して白茶けた『人形の家』の、確か旧かな遣いだった文庫本を見つけた時に胸が掴まれるような思いがした記憶が未だ脳裏に昨日のことのように焼き付いていて、だからイプセンは読めない。もう10年も前のことだというのに。叔父さんはダンディな演劇青年だった。