しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


15日に東大駒場キャンパスで行われた、翻訳の詩学 エクソフォニーを求めて(多和田葉子柴田元幸野崎歓小野正嗣)での走り書き。

・アメリカには行ったことがなかった。行ってみたら思っていたのと違った。異質性ということについて、レッテルを避けて書きたいと思った。映像のようにはっきりと脳裏に焼き付いたアメリカの記憶を壊したいと思って書いた。

・置き去りにされた小説。identityのゆらぎ。かなに直されることによって複数の意味を帯びるイメージの連鎖、脱線。目眩の感覚に似た重層構造。

・何も覚えていないところから書くこと。記憶を辿るというよりは日本語を紡いでゆくうちによみがえってくるもの。

・意味の判らないことばに耳を澄ますことで、ことばそれ自体の表情が立ち上ってくる。

追記:
多和田葉子は昔から凄い書き手だなあと思って作品を愛読してきたけれど、はじめて本人を目の前にすると、やはりたいへんなオーラが出ていた。何と言うか、不思議な雰囲気でふわふわしているようにも見えるし、終始にこやかではあったけれど、でもお腹のなかではどうなんだろう?的な不可解な感じも受け取れて、彼女のシュールで妄想癖的でちょっと残酷な(と、こんなことばでまとめてしまうととたんに陳腐になるけれど)作品世界にそのまま繋がる部分があるなあと思ってみていた。話を聞きながら、ことばに関してこんなにも意識的な書き手は今なかなかいないのではないかと思う。出席者のひとり、小野正嗣さんが『容疑者の夜行列車』*1をよく読み込んできて、引用して語ってくれたところを聞いて改めてうーんと唸った。

 列車は来ない。もう二十分も定刻を過ぎている。あなたは不安になって、駅員を探して訴える。
 「確かに遅れているようですね。」
 と語尾のお茶を濁している。
 「いつ来るんですか。」
 「そうですね、聞いてみましょうか。でも、分かるかどうか。」
 頼りない答えだが、何も分からないままホームに立っているよりはましだった。たとえお茶でも一時空腹を忘れさせてくれるようなもので、どんな言葉でもかけてもらえば安心する。
多和田葉子『容疑者の夜行列車』(p.24)より

「お茶を濁す」という手垢のついた慣用句を使うなんて、多和田葉子にしては珍しい気がするのだけれど、と思いながら読み進めると、ほら、やっぱり一筋縄じゃいかないのだ。慣用句はあっという間に「お茶」そのものにどろんしたくせに、あっけにとられるわたしたちを尻目に知らんぷりでおまけに鼻唄なんぞ歌っている。それは大人の品とあじわいのあるユーモアというよりはむしろいたずらっ子の振り向きざまに「べー」と舌を出して逃げるような感じで、作者のからからとした笑い声が響いてくるよう。

トークセッション終了後にあつかましくも(サイン会ではなかったので)持参した新刊『アメリカー非道の大陸』*2にサインをしてもらったけれど、なんだかその字も大きくてふわふわゆらゆらしていて子供が書いたような字にも見え、「ああ、この手からあんなおかしな作品達が紡ぎだされるんだ」と感慨深かった。