しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

自分用メモ:平出隆×加納光於「装幀をめぐって」


聞き手を平出さんがつとめ、加納さんが答えるというような図式ではじまった。まず、最初に加納さんがおっしゃったのは、自分は絵描きで専門のブックデザイナーではないのに、どうして装幀を頼んでくるのか?という思いがおありだったとのこと。そして、どうせやるのなら、特色を使いたいし、値段の高い低いではやりたくない、という言葉もあった。


このやりとりを聴きながら思い出したのは、2009年だったか、間奈美子さんの《アトリエ空中線10周年記念展》のギャラリートークで、書肆山田の創設者の山田耕一さんがとある詩人に「加納と組んだら潰れるぞ」と言われた、とおっしゃっていたことだった。加納さんは特色を使って何度も刷り直しをするからだそうで、そのとおりに受けていたらたいへんなことになる、ということだったらしい。お話を聴きながら、やっぱりそうだったのか、と妙に納得してしまった。


加納さんは、自分は絵描きなので、と繰り返しおっしゃっていたのが印象的だった。装幀の仕事は、自分の絵に言葉が入ってくるのでどうも抵抗があるとのこと。それから、とある著名な詩人の本の装幀を編集者から頼まれていたのだけれど、著者に「加納の絵は強すぎる」という理由で断られたことがあったとのこと。確かに、加納さんの作品には、色彩を大気と一息でつかまえたその瞬間を画面に定着させたような、迸るような鮮烈さがあるので、その著者は自分の言葉が拮抗できないかも知れないと思ったのだろう。これも、そうだろうなあ、と妙に納得する。


モニタには加納さんがこれまでに手掛けた数々の装幀が映しだされ、吉増剛造さんの献呈署名(まだこの頃の吉増さんの字は太く力強い線だ)本が何冊もあり、そのうちの何冊かにはお礼の言葉がはいった本もあって、見ているだけで胸躍る。大岡信とのブックオブジェ《アララットの船あるいは空の蜜》は35部つくられたそうだけれど、誰かこの詩集を読んだことがある人はいるのだろうか?


「色彩は誰のものでもあり、誰のものでもない」「色がかたちをつくりあげている」「湧き立つように色がたちあがってくる」といった言葉の数々もいちいち書きとめておきたい。また、加納さんはタブッキがお好きだそうで、彼の「色彩は瞬間の集合体だ」という言葉を引いておられたのも、なんだか嬉しくてにんまりしてしまう。


カラリストとしての印象が強い――去年、図録にいただいたサインも虹色の色鉛筆だった!――加納さんだけれど、平出隆さんとの詩画集『雷滴』では一転、モノクロームの版画である。この理由ということで、加納さんが答えておられた言葉がたいへん心に響く。「(平出さんの詩の)言葉が両脇を固めているので、色を侵されるのではないかと思ったから」。これは、すごい言葉だな、と思って感嘆してしまう。昆虫や蝶々に本能的に備わっている保護色や擬態のように、平出さんの硬質な詩の言葉から、無意識に自分の身(というか版画作品)の純度を守ろうとして色を失ったのではないか、と考えたりもした。


画家と詩人がそれぞれの芸術で互いにすこしでも相手の領域を侵犯しあおうとするような、ひじょうにスリリングな衝突の火花が感じられて、たいへん刺戟的な対話であった。


会場には、美術評論家の馬場駿吉さんや詩人の藤原安紀子さんもおいでになっていたよう。トークのあとで、馬場駿吉さんが編集を務めておられる名古屋の芸術批評誌『リア』をツバメ出版流通さんの棚から買った。

9/14,15に開催された、かまくらブックフェスタ(http://d.hatena.ne.jp/kamakura_bf/)に二日間とも参加した。いつもは平出隆さんのトークがある日のみ行くのだけれど、今年は大阪からはるばるやってきた、ぽかん編集室+編集工房ノアの机で売り子の手伝いをしたため。過去二回はお客として参加していたので、机の内側からの眺めはなんだか不思議な感じ。二日間いろいろな方々ともお会いできて、お話しできて、たのしい時間だった。誘ってくれた真治さんに感謝。

1983年のジョゼフ・コーネル映画祭

京橋のフィルムセンター図書室には、あらゆる映画資料を収集対象としているだけあって、こんなもの(リーフレット)まで所蔵されているのである。すごい(!)。1983年のその場に立ち会えなかった者として、せめて記録だけでもここに書きとめておきます。

1.
call#: FF6053 600
Joseph Cornell Film Screening
Jan.21,22,1983

ジョゼフ・コーネル短編映画作品上映会 昭和58年1月21日、22日 
午後3時30分より講演:岡田隆彦山口勝弘 雅陶堂ギャラリー竹芝

1. Rose Hobart
2. The Children's Party
3. Centuries of June
4. Aviary
5. A Legend for Fountains

別刷:Cassiopeia's Chair to Joseph Cornell, the artist of "Cassiopeia#1" / Takahiko Okada


2.
call#: FF6053 601
Films of Joseph Cornell
The Invisible Cathedrals of Joseph Cornell
Gatodo Gallery

エッセイ:ジョナス・メカス「ジョーゼフ・コーネルの目につかぬ寺院」(p.355 ジョナス・メカス著、飯村昭子訳『メカスの映画日記』フィルムアート社)

とき:[昭和58年?]3/27,29,31 4/3,4 2:30pm 4:30pm
ところ:アメリカンセンターABC会館

作品リスト
1. Rose Hobart
2. Gnir Rednow
3. Centuries of June
4. Aviary
5. Nymphlight
6. A Legend for Fountains
7. Angel


瀧口修造の序文「時のあいだを ジョゼフ・コーネルに」のはいった、群青色の薄いパンフレット"Seven Boxes by JOSEPH CORNELL"(Catalogue Gatodo Gallery No.3, 1978)はわたしの宝物の一冊である。ギャラリーで熱心にコーネルの箱を見つめる瀧口夫妻の写真を、白倉敬彦『夢の漂流物』(みすず書房)で見つけた時のうれしかったこと。ふと、s.t.氏がコーネルの映画を観たとしたらどんな言葉をのこしてくれただろうか、と考える。おそらく静かな熱を込めて――デュシャンの小展示に寄せたような、こんな口調で語ってくれたのではないか。


「なんと近づきがたく、なんと親しげな存在。その全作品を一堂に眺めることは、もういろんな意味で不可能になった。しかし、かつて全作品を鞄に収めることを思いついた人。いまは窓越しに、足跡の一端をしのび、おそらくその人が微笑みかけるのを待つ。」

増村保造『最高殊勲夫人』は、戦前の日活映画『結婚二重奏』へのオマージュである

関東でも梅雨明けが発表された午後、フィルムセンターにて、増村保造『最高殊勲夫人』(大映東京、1959年)を観た。若尾文子が可愛いテンポの良いロマンティックコメディの佳作といった感じで楽しめたけれど、いちばん感動したのは、母親役に戦前の日活スターだった滝花久子が出演していたことだ。日本映画を観る時には、つねにエーパンこと岡田時彦が基準になってしまっている(ちとどうかと思うが...)わたしのなかでは、滝花久子は田坂具隆『結婚二重奏』(日活大将軍、1928年)で共演した女優さんである。ハッピーエンドになだれ込む終盤で、父親役の宮口精二若尾文子川口浩の結婚を受けた台詞に「三重奏と言われるのはご免だうんぬん」(うろ覚えだがそんなニュアンス)というのがあり、これはもしかして!とひらめいたのだった。この映画は三姉妹の結婚を描いた増村版『結婚三重奏』であり、田坂具隆『結婚二重奏』とこの作品に主演している滝花久子への30年後のオマージュなのである、と言ってみたい。この増村作品からは市川崑と同じく、阿部豊、田坂具隆内田吐夢など戦前日活のモダン劇の系譜が感じられて、なんだかじーんとしてしまう。

二ヶ月以上も放っておいてしまった。書かないと何があったか思い出せないけれど、書いていないということは、特にぱっとしたことはなかったということか。今年は読書メモをほとんど書いていないことに気付いて焦る。もう半年終ってしまったというのに。再読を含め、読んだ本のタイトルだけでも手帖に書き込む。


今年は一月に読んだ『冬の幻』からはじまり、翌月『現代詩手帖』で追悼号(吉増剛造さんの文に...)が組まれたりしたため、昨年亡くなった飯島耕一さんのことがしじゅう気にかかっていて、気付けば飯島耕一さんの関連本(『萩原朔太郎1・2』『港町』『楠田一郎詩集』など)ばかり読んでいる。あとは、ルソー『孤独な散歩者の夢想』やモンテーニュ『エセー抄』には少しだけ救われるおもいだった。何も読めなくなった時は、古典を読むに限る。


「この人が生きているから」という心のお守りのような存在だった、那珂太郎さんと大西巨人が亡くなられたのも悲しかった。なんだかほんとうにがっくりきてしまった。図書館と家の往復の冴えない日日である。梅雨時期で雨がしとしと降るだけでも鬱々とするのに、政治や将来の見通しのことを考えるとますます俯き加減になってしまう。将来の見通し?なんて、そんなものわたしにあるのかしら。「見通しは暗い。夜どおし朝だ」という山口哲夫さんの声が頭のなかでこだまする。山口さんの運動神経の良いかっこいい詩を読むとようやく少しだけ気持が上向きになるけれど。それにしても、嫌な世の中になってきましたね。わたしは外的圧力に対しひじょうに脆い人間なので、いちど「ふさぎの蟲」に取り憑かれてしまうと、気が滅入ってしまって本さえも読めなくなるのです。困ったもんだ。ああ、願わくば強靭な精神と肉体が欲しい。それから、こういう「鬱の音楽」(那珂太郎)を吹き飛ばしてしまうような悦びも一緒に。


日曜美術館を観ていたら、世田谷美術館酒井忠康館長が出演されていて、夭折の画家・関根正二を紹介していた。関根正二の絵はデッサンも含め大好きな画家なので、思わず家事の手を止める。ブリヂストン美術館所蔵の《子供》(1919年)はほんとうにすばらしい作品で、何度も画の前に佇んだことがあるけれど、子どもの服の色が途中から燃えるようなバーミリオンになる秘密をはじめて知ったのだった。関根正二の描いた画を観に行きたい。夜、酒井さんの『早世の天才画家 日本近代洋画の12人』を読み返す。